豊原国周論考 初期画業と評価 第三章 考察 

1852年から1870年まで、豊原国周を名乗るまでの画姓変遷、年玉印以外の落款、大首絵、大顔絵、ミディアムショットなどの構図、感情表現、誇張と省略の漫画、ストーリテーラーなどを論じた。                                     この章では、3-1  浮世絵師としての独立と初期の活動、3-2 画名変遷(一鶯齋、国周、豊原国周)、3-3 年玉印、五菱年玉印、落款, 3-4 風景画に関して、 3-5 作品構図の考察(大顔絵、大首絵)、 3-6国周の初期作品の特徴を論じた。引用論文はここに記載した。

3-1 浮世絵師としての独立と初期の活動(1870年まで)

1852年に「八十八」としてデビュー

 入門して1852年に豊国IIIが描いた国尽倭名誉揃物の1枚「将門息女瀧夜しゃ」に門人八十八として滝夜叉姫にひれ伏す武士の絵を描いた。画名も無い時代に描き、その作品が世に残った絵だ。その翌年1853年にもこの揃物は続き、再び師匠の絵「神功皇后」の絵に鼎に載った玉の絵を描き、門人八十八と記した。この揃物には、多くの門人がそれぞれ、豊国の絵に、門人国貞、門人貞秀、門人国綱として絵を描き入れた揃物だった。この揃物は演劇博物館に65枚の絵が保存されているが、国周はひれ伏す兵士と鼎に載った玉といったイラストを描いたが、多くの門人は立ち姿の人物像を描いている。国周は技量を示す様な立ち姿の人物画を描かなかったのはなぜだったのか興味が残る。「門人八十八」を署名した絵はこの2作品だけで、これらの作品以降は「国周」の名を使用している。 国周が豊国IIIに入門した年はいつかに関して、菅原真弓は豊原国周研究序説(3)で1848年に14歳で入門したという説を紹介している。岡本裕美(24,p348)は1848年、14歳の時に豊国IIIに入門したことを記載している。1848年に入門して4年目でこれらの絵を描いたことになる。一方、小島鳥水(1,p244)は、国周は17歳(1851年)で豊国IIIに入門したと述べている。岡本裕美(24,p347)は八十八が「羽子板問屋明林堂の仕事を引き受け、その役者絵は評判が良かった」と述べている。そうであれば、入門の翌年「門人八十八」の名前で描いた絵となり妥当な印象がある。

本格的なデビュー 1854年~1855年

 1854年に「春の景花遊図」を年玉印で囲んだ国周画として、検閲印をうけてデビューした。この絵では、江戸市民の春の楽しみ、花見幕の内での酒宴56)が始まろうとしている様子が描かれている。中央の女性が主役と考えられる。彼女は眉はなくお歯黒である。上級武家または裕福な商家の奥方と思われる。髪は勝山髷だ。帯は一つ結びで、しごき紐が屋外で着物の汚れを気にしている様子を示している。左の女性は丸髷で使用人か。彼女は裾の汚れを気にして着物の裾を持ち上げている。二人はこれからの宴の打ち合わせでもしているのだろう。右には振り袖を着た娘が重箱を手にして小さな子と話している。花見の様子だが、花見幕の奥では人足風の男連中が「なんだい、卵焼きかと思ったら、タクアンかい」なんてすでに楽しく酒盛りをして居る様子が描かれている。浮世絵検索では1854年に描かれ現在公開されている浮世絵作品として2409枚出てくるが、多くの浮世絵は歌舞伎芝居、風景、雅な東源氏物、花魁などで、市井の日常を描いた作品は少なく国貞(豊国III)の「調布 多摩川」で女性が川を渡る様子を描いた作品等数枚がある程度だった。国周は庶民の日常というニッチなジャンルの絵を描いたと言うことだ。この作品の主役の女性達が描かれた背景の隅、花見幕の後ろで男達が酒盛りしている様子が描かれている。この描き方は、鑑賞者が描かれた女性と花見を楽しむというよりは、鑑賞者に花見というイベントを伝えている。1857年の「鵜かいの夜遊宴」(3枚続)では主役の源氏に加えて左隅に別のグループが描かれ、話が広がっている。このように話を広げる描き方をすることは一つの特徴だ。1855年の「隅田川夜渡之図」は豊国IIIの絵から構図などを借用していると思われる。豊国IIIの登場人物は雅な姫と若殿の遊興の絵だが、国周は浮世絵の題材をこれまでの庶民のあこがれではなく、庶民の女性と威勢の良い船頭を配した江戸庶民を描いている。いわゆる「やつし絵」で、ここに、国周 の画風として、庶民を主人公にする浮世絵を目指した出発点があったように思える。国周の絵は、体の動きもしなやかで動きが感じられ、世間話でもしながら静かな月夜の晩に川を渡る様子が描かれていて、話し声や笑い声が聞こえてくるような生き生きとした絵だ。中景として川面に月が写り、その月は波に揺れている。右岸には畑が広がり、遠景に帆船や山が描かれ、川が遠くの海までも繋がっている様な広がりが描かれている。この時には既に国周が描こうとした題材の方向が見えていた、つまり、雅から庶民的な物、やつし絵を描こうとしていたと思えた。この絵が描かれたモデルが誰であれ客観的に見た鑑賞者に多様な思いを想起させる素晴らしい作品だ。

 1855年に挿絵の分野では山東京山作、芳綱画の「大晦日曙草子」に「一鶯齋」を名乗ってイラストを描いた。これが国周の挿絵分野でのデビュー作だ。多くの草双紙に絵を描いていた師匠豊国IIIの絵草紙にイラストを描いたのではなかった。

1856~1858年の頃

 1856年から1858年は、浮世絵よりも挿絵の分野での作品が多く見つかった。草双紙に物語の挿絵や簡単なイラスト描き、名前は「一鶯齋」「一鶯齋国周」「国周」が用いられた。簡単なイラスト絵には「知哥」「くにち」などの名前も使われた。また国周が物語の挿絵を描いたデビュー作品は1856年の「義仲勇戦録」で「歌川国周」の名前を使った。同様の作品は「四家怪談」、「和漢武者鏡」、1857年の「伊賀の仇討」、「頼朝義経一代記」、「頼光大江山入」、「白石物語」、1858年は若干数が減って、「かちかち山」、「伊賀越仇討」があり、その他の本にも簡単なイラストを描いた時期だった。この「伊賀越仇討」などの草双紙では武者が活躍する絵を描いていた。力強い武士の顔が描かれ、動きの激しい表現が巧みに描かれていた。市井の人も描かれ、その顔の表情は多彩だ。表情豊かで、「よし、一肌脱ごう」、「よろしくお願い申し上げます」、「てやんでえ~」、「こんちくしょう」等台詞が聞こえるようだ。

 1856年 豊国の絵「春選十二時 酉の刻」(第2章1856年参照)に「門人国周」の署名でコマ絵を描いた。町人が格子越しに張見世(56)を覗いている様子を描き、門人国周と署名している。豊国IIIは花魁がもらった手紙を読んでいる様子を描いた、長い手紙だ。通りでは街の人が格子越しにのぞき込んでいるが、ほっかむりをして居る男もいる。女性も覗いているようだ。通りでは、女性が腰の引けた男に話かけている。その横を蕎麦屋らしき男がおかもちを頭に載せて通り過ぎてゆく。国周は、奥座敷の花魁が手紙を静かに読んでいる頃、通りでは多くの人が行き交い、物見しているという情況をコマ絵を通して伝えている。1852年のコマ絵に比較すると、1856年には、限られたスペースに多くの情報をいきいきと描いていた。

 

 1857年に描かれた「今様源氏之内月」は、着物の柄が丁寧に描かれ、派手な印象を受けるが、これも国周の特長だ。この絵は板元上重が2枚で完成している。板元三鉄がさらに一枚加えて発売した。3枚組にするとテーマが暈けてしまうと思われた。2枚組の絵に、追加することを考えたのは、国周の判断か、版元の判断か興味が残る。1857年の「大川通り」には、穏やかなお正月の雰囲気が描かれている。正月、高島田に結い上げた髪56の娘が落ちてきた奴凧を避けようとして、羽子板の羽を打ち損じている。体のバランスを崩し右足が浮き上がった様子は、動きがある。体をひねった様子が巧みだ。後ろには、凧を逃がした男の子が追いかけている様子も絵描かれて、物語がうまく描かれている。女性の後ろには正月を祝う武士や町人、子供達が描かれている。

 1858年には、急に多様なジャンルの浮世絵を描き始めた。相撲の関取を描いた「虹ケ嶽秈右エ門」などや、庶民を主役にした「当世美人揃」、「養蚕」、市の様子を描いた「浅草山金龍山市之図」、大首絵として「悪七兵衛景清・熊谷小次郎直家」、源氏絵である「源氏五節句の内七月七夕祭り」、漫画絵として素晴らしい「相馬良門古寺之図」、物議を醸した「目一秘曲平家一類顕図」などが発表された。このなかで、「虹ヶ嶽杣右ヱ門」の構図は前年の豊国IIIが描いた「久留米小之川才介」にそっくりだが、1855年に描かれた「隅田川夜渡之図」と同様に、師匠の絵を参考にしたという事だろう。また、「相馬良門古寺之図」の絵には、物語が描かれている。将軍太郎良門とその部下の武将が見守る中、妖術使いの滝夜叉姫がつづらを持ち込み、それを開けると煙とともになにやら化け物が出てくる様子が描かれている。手下の驚いた様子、良門の睥睨した様子、奥の間では三下奴連中がなにやら関係なく騒いでいる、良門の後ろには良門に妖術を授けた巨大なガマが部屋を見つめている。左の奥には女がふたり、これまた関係なく別のことをして話しているなどなどそれぞれの台詞まで想像できる楽しさがある。絵はリアリティをなくして描かれた楽しい絵で構成された絵物語、かわいい漫画だ。

1859~1863年の頃

 1859年から1861年の間、描かれた浮世絵で保管されていた枚数は年を経る毎に増えていった。1859年は2作品、1860年は9作品、1861年は10作品、1862年は92作品と急激に増え、1863年は279作品と多くなり、国周の絵師としての評価と人気が高くなってきた時期だ。描かれた浮世絵は、源氏物、花魁、風俗、文化、風景画、戦記物、役者絵が描かれた。この時期、国周は幅広く多くの分野の絵を描いていた。

 その中で、興味深い1859年の作品「安宅の関勧進帳」がある。国周は、豊国IIIの版木を使用して、富樫介家盛の顔だけを描き彫り直したと思われる作品を作成し、配役名に加えて役者名を記載して発表した。この絵から、版木の使い回しの可能性と天保の改革規制として、一枚の絵に役者名と配役名の記載が禁じられていたが、規制に反してその両方を記載したということがわかる。

 女性を描く時に、国周は着物の柄を丁寧に書き込み艶やかに描く特徴が見られる。1859年の「花盛美人揃」、1860年の「はちかんじひさこのてこまえ」「重岡」、1861年の「花魁 滝川 他」、1862年の「春色酒中花あそび」、1863年の「其田練廊里暁」、1863年の「源氏の若 近江八景 遊覧之図」などに国周の特長が出ている。絵が華やかになるが、この派手さは庶民的な印象を与えるので、樋口二葉(47)は全身の美人画や版本挿絵は垢抜けしない、と述べている。小島鳥水(1,p241)は1866年の「艶姿化粧自慢」を紹介し、傑作佳作とも例外なく半身物(ミディアムショット)、準大首物や大首絵(クローズアップ)であると述べている。また、1862年の「はうた虎の巻」は遊女の日常を高く評価しているが、「安政6年1859年の花盛り美人揃い」は非常に良くないとしている。小島鳥水の評価に関して、其の判断基準の軸は「従来の浮世絵に比してどうか」という考え方に思えるので全ては同意できない。たとえば、「はうた虎の巻」の絵は、日常を描いている絵で、美人を愛でる絵ではない。そもそも国周は美人画を描こうとしていたとは考えられない。容貌や立ち姿を愛でるのが美人画であり、国周はやつし絵で日常の所作を描いたり、物語を描いていた。ミディアムショットの絵は評価されているが、それらの絵はやはり美人画ではない。美人画に関して、田辺昌子(23,p6)は美人として人気のあった遊女や芸者を理想の美人として菱川師宣が描き、その後、鈴木春信は話題や人気のあったお仙やお藤を描き、歌麿はおきた、高島おひさを描いたが、顔や姿はそれぞれ個性を持って描かれることはなく、理想の美人として描かれたと述べている。国周はやつし絵、物語を描いていた。彼の絵を美人画として評価する行為は、春信や歌麿が確立した理想の美人画のジャンルへ、全く異なるコンセプトの絵を持ち込んで比較することに成り、その行為は根本的な誤りだ。

 1862年になると浮世絵検索で見つかる保管枚数は増え86作品(1862年の作品として浮世絵検索では明らかな干支文字の読み間違いがあるので若干数が少なくなった)となり役者絵が多く描かれた。1861年から、芝居の役者名と配役名の同時記載をするようになったことも枚数が増えたことに関係していると考えられた。この時期、豊国IIIも膨大な数の役者絵を発表して居る。1863年は浮世絵検索で見つかる保管枚数は279作品と多くなった。さらに、国周にとって1863年は節目となる年だった。

1) 門人がいた:歌川国周が描いた草双紙「假枕巽八景」に門人音次郎がイラストを描いた。このことは、既に弟子を抱えていた事を示し、その弟子は参画できるほど描く事ができたことを意味している。音次郎とは、本名守川音次郎で国周の門人。画名は守川周重で、明治初期に活躍した。

2) 応需作品:スポンサーが付いたと考えられる応需作品として「宅開酒宴之図」が初めて見つかった。この年の「蒙古溺船ノ図」も応需作品だ。人気と評判が高くなったと考えられる。

3) 風景画を描いた:これらの絵は、御上洛東海道シリーズと言われる作品群で、将軍徳川家茂の御上洛にあやかって、豊国や国周など歌川派の絵師が中心になって宿場町と将軍家茂の行列を暗示する絵が多数描かれた作品の一部だ。この件は「第3章3-4風景画に関して」で更に論じる。

1864~1870年の頃

 1864年暮れに師匠豊国IIIが他界し、国周が追善絵を描いた。国芳が既に亡くなっていたこともあり、役者絵の分野で国周が人気絵師となった。浮世絵検索で調べると、国周の絵として、1864年は410作品、1865年は633作品、1866年は542作品、そして1867年には1072作品が現在保管されていた。1867年の作品数は、国周の一生のうちで最も多い年だ。歌舞伎芝居とその役者絵が主に描かれるようになった。彼の役者絵の多くは、腰から上のミディアムショットで歌舞伎役者を描いた。その構図で、彼は芝居の激しい動きや山場の絵、小さな動きで感情を伝える役者の演技である感情表現を丁寧に描いた。歌舞伎芝居を説明するような立ち姿の絵、いわゆるロングショットの絵は減少してきた。

 1869年に、多くの評論家に評価された大顔絵を具足屋から発表した。これは、現代の映像関係などでも多用される手法だ。画面いっぱいに顔だけを描く事により、鑑賞者には周りの状況を全く分からなくし、鑑賞者に役者の顔の表情から心情を読み取らせる。彼はこの手法を用いて、怒り、疑念、不安、安寧、猜疑心など歌舞伎役者が表現した心情を紙に写し取った傑作を発表した。微妙な頬、眉、口元、目の変化で多様な感情を表現した。それまで役者絵の顔は引目鉤鼻で、睨みや見栄が定番で、美人画はデッドパンと相場が決まっていた。この喜怒哀楽を抑えた表現は鑑賞する側がそこに主人公達の複雑微妙な心理を重ね合わせて見ることになる(65)伝統的な描き方だった。この件に関しては、「3-6 作品構図の考察」として更に論じる。また、1870年に始めて豊原国周を名乗った、この件は、次の3-2画名変遷で述べる。
        

3-2 画名変遷

 画名に関しては、豊原国周の名前の由来や、いつから使用したのかなど曖昧だ。小島(1,p204)は入門して豊国IIIから一鶯齋の画名をもらったと述べている。さらに辞典などには一桃国周、花蝶楼、曹玄人、米翁、豊春楼などが用いられたと記載されている。具体的にどのような名前が使われ方をしたのかに関して、国周の初期の作品(1870年まで)を調べて、彼が使用した多様な画名の変遷を時系列的に次の表に示した。

 その結果、表に示すように1854年に「春景花遊図」で「国周」としてデビューした。挿絵の分野では1855年に「一鶯齋」として「大晦日曙草子」に補助的な挿絵でデビュー、1856年には「歌川国周として「義仲勇戦録」の全篇を描いた。多くは「一鶯齋」、「鶯齋」、「国周」、「知哥」などと名乗っている。浮世絵の分野では、1855年から1863年頃まで「一鶯齋国周」、「一鶯国周」、「鶯齋国周」、「国周」の名前で作品を発表している。1863年頃から人気が出て発行枚数が増えてくる。1864年に豊国IIIは亡くなる。その頃の1864年から1870年にかけては国周の名前が主流となり、一鶯齋国周の名前はほとんど見られなくなる。1870年1月に豊原国周の名前が始めて使われるが、この年の多くの作品はまだ国周の名前が使用されていた。翌年1871年には豊原国周の名前が20%以上使われるが、まだ多くの作品は国周の署名だった。しかし、1872年にはほとんど豊原国周の名前に統一され、国周だけの名前を使用した作品は非常に少なくなった。1870年から1871年にかけて、国周から豊原国周の署名に移行していた。小島鳥水は「豊原国周伝」(1)で豊原の名前は明治4年(1871)から使用したと記述していたが、実際にはその前の年1870年から「豊原国周」の名前を使っていた。以上に述べた名前以外に使用した名前がある。表にまとめたが、短期的に使われていた画名として、「知哥」、「周」、「花蝶楼国周」、「華蝶楼」、「霧春庵国周」、「国ちか」、「くにち画」、「柳嶋国周」、「一をう齋」、「一桃国周」、「一梅国周」、「君松国周」、「応好国周」、「一為国周」がある。文献には、豊春楼(23)、曹玄子、米翁(23)などが報告されているが、次の表に記載の無い画名は、1870年以降に使用されている可能性がある。

 1870年から「豊原国周」と名乗り始めた。このタイミングは何かに関して、師匠豊国IIIの七回忌が過ぎたことによるものではないかと考えられる。国周の墓は真宗大谷派 本龍寺にあるように、仏教徒である(46,p25)。しかし、年忌に関しては、仏教の教えにあるものではなく風習だ。年忌に関しては、奈良時代は1周忌まで、平安時代は3回忌まで鎌倉時代に入って33回忌までと経済力と関係して長くなった。庶民が死者追善先祖祭祀としての法事がどのようにしていつ始まったのか明らかでは無い(66)。四十九日の法要が終わると忌みが明け死者の霊魂は屋根棟を離れる(67)。33回忌を弔い上げとして、仏が神になる。また、初七日から33回忌まで13の仏菩薩やがそれぞれに日に割り振られている(68)。以上の事から、四十九日と三十三回忌の意味ははっきりしたが、それ以外の七回忌などはその時の文化的背景の中でどう理解されていたのかははっきりしない。しかし、七回忌、十三回忌は死者に対する気持ちの上で一つの区切りを付ける節目と理解できる。豊国IIIは1864年12月に亡くなった。当時の「数え年方式」で数えれば、1870年の正月に7年経過したことになる。国周が歌川派の統帥豊国IIIに育てられ一鶯齋国周の名をもらった恩義から、前の師匠である豊原周信の豊原を名乗ることは憚られた。そこで、師の七回忌が過ぎた機会に豊原国周を名乗り始めたのではないだろうか。しかも、一気に変えたのでは無く、1870年から1871年の2年ほどの歳月を経て変えて行ったと理解できる。また、森銑三(17)は国周が「師匠の元で17年間修行した」と述べたと紹介している。この17年に関しては、数字が若干不正確な可能性があるが、豊国IIIの死亡した1864年を基準にすると国周の入門よりもかなり以前となり意味が不明だ。Amy(54)は師匠に対する恩義を長い間忘れることは無かった事を表現したのではないかと述べている。しかし、先に述べたように、豊国IIIの七回忌後、豊国IIIにもらった一鶯齋国周という名前を、1870年に豊国IIIに師事する前の師匠にちなんだ豊原国周に変えたことが、豊国IIIからの独立と考えれば、17年の始まりは八十八でデビューした1852年前後となってくる。だとすれば、「17年の修行」も意味を持ち、国周は師匠の恩義に厚く、とても義理堅い男だったと考えられる。

 浮世絵検索では豊原国周の名前を使用した1870年以前の作品が出てくるが、次のような判断の誤りがあり、確実に1870年以前作品だと判断できる作品は無かった。判断の誤りの原因は(a)検閲印の読み間違い、(b) その年には役者名跡が空席の時代なので該当する役者は存在しない、(c) 演目が1870年以降に書かれた劇作品などであった。詳細は第1章で議論した。

 「歌川」の画姓に関してだが、挿絵の分野では1856年のデビュー作品「義仲勇戦録」に歌川国周と名乗っていた。次に歌川国周が使われたのは1863年の「水鏡山鳥奇譚」、「假枕巽八景」であり、挿絵の分野でもあまり多くは使われてはいない。浮世絵で歌川国周を名乗った作品は、1867年河原崎玉太郎の追善絵に見られるが、いわゆる浮世絵、役者絵で使われた例をほかにはまだ見ていない。この河原崎玉太郎の追善絵には歌川国周と書き国周の落款を押している。なぜこの追善絵だけに歌川国周を名乗ったのか興味深い。このように、国周は浮世絵の分野で「歌川」とは全く名乗らなかったのでは無く、この名前をほとんど使用しなかったと言える。

  最後に、「門人」という表記に関してだが、国周が「門人国周」を名乗ったのは3作品だ。1855年「隅田川夜渡之図」で、「豊国門人国周」と名乗り、1856年「春選十二時」で「門人国周」を名乗ってからは、「門人国周」と記した作品は暫く無く、1864年に豊国IIIの追善絵で敬意を示して「門人一鶯齋国周」と名乗った。国周がいつ独立したのかという点に関して、「門人」のあるなしに注目した。第2章1852年のところに記述したように、豊国IIIの背景に絵を描いた場合でも「門人国盛」と「広重」と書いた場合では意味が違っていると考えた。すでに独立していた絵師は、共同制作者として「広重」のように名前だけの記載で、まだ修行の身である場合は「門人国盛」と書いたと考える。これらのことから、1856年頃には、独立したと考えられる。

1852年 瀧夜叉 豊国III画   門人八十八

1853年 神功皇后 豊国III画  門人八十八

1854年 春の景花遊図      国周画

1855年 隅田川夜渡之図     国周 豊国門人国周 

     この続物は全て国周が描いた作品だが、豊国に敬意を表して豊国門人と記載した。

1856年 春選十二時       門人国周 (国周はこま絵を描く)

1857年 浅草山花くらべ     背景国周 

     豊国IIIの絵の背景を描いたが、門人の言葉はなく独立した絵師として、共同作品として認識される。

1864年  豊国III追善絵    門人一鶯齋国周筆 

     この門人の意味は、師匠に対する敬意の意味だ。

国周の初期の活動と画名、雅号  

     

挿絵関係団扇絵浮世絵
1852  門人八十八(人物)
1853  門人八十八(鼎)
1854  春の景花遊図(国周)
1855大晦日曙草子(一鶯齋) 隅田川夜渡之図(豊国門人国周、国周)
1856義仲勇戦録(歌川国周、国周)

八犬伝 犬の草子(知哥)

題大磯虎之巻筆(知哥、周) 

三世相縁の緒車(国周) 

安政見聞誌(一鶯齋国周)

四家怪談(一鶯齋)

和漢武者鏡(国周)
 春選十二時 酉の刻 (門人国周)
1857入艤倭取楫 (国周)

鼠小紋東君新形(国周、一鶯齋)

当南見延御利益(一鶯齋国周)

伊賀の仇討(国周)

頼朝義経一代記(国周)

北雪美談時代加々見(一鶯齋) 

頼光大江山入(国周)

白石物語(国周、一鶯齋国周)
 公開されている浮世絵は4作品  

浅草山花くらべ(国周)

今様源氏之内月 (一鶯齋国周、花蝶楼国周、国周) 

十二ケ月之内正月大川通り(一鶯齋国周)

十二ヶ月之内灌仏会(花蝶楼国周)
1858                    かちかち山(一鶯齋国周、 国周)

新増補西国奇談(国周、くにち)

伊賀越仇討(一鶯齋国周)

教草朝顔物語(国周)
 公開されている浮世絵は11作品  

虹が嶽(一鶯齋国周)

松ヶ枝(国周)

鷲が浜( 一鶯齋国周)

当世美人揃(一鶯齋国周、国周)

浅草金龍山市之図(国周、 花蝶楼国周、       一鶯齋国周) 

養蚕( 一鶯齋国周)

悪七兵衛景清他( 一鶯齋国周、国周)

源氏五節句之内七夕 (国周)

風流見立福づくし( 一鶯齋国周、国周)

目一秘曲平家一類顕図 (華蝶楼)

相馬良門古寺之図( 国周)
1859報讐信太森(一鶯齋国周)

英雄成生功記(一鶯齋国周)
 公開されている浮世絵は2作品  

安宅の関勧進帳( 国周)

花盛美人揃( 国周、 一鶯齋国周)
1860  公開されている浮世絵は9作品  

文治四年摂州大物浦灘風之図(国周、一鶯齋国周、霧春庵国周)

今様源氏三曲遊興之図(国周)

はちかんじひさみのてこまえ(一鶯齋国周)

今様福神宝遊狂( 一鶯齋国周、国周)     

山王御祭礼番付( 国周)

太平記大合戦(一鶯齋国周)

横浜廊中(花蝶楼国周、一鶯齋国周)

大井川徒行渡図(国周)

重岡(国周)
1861教草女房形気(一鶯齋)

濡衣女鳴神(歌川国周、国周、一為齋国周)  
 公開されている浮世絵は10作品  

木性の人( 一鶯齋国周)

福人寿有卦入船(国周)  

丁卯二月七日金性の人うけニ入( 一鶯齋国周)

水性の人八月五日うけに入(一鶯齋国周)

太平記(国周)

忠臣義士仇討(国周、 一鶯齋国周、一鶯国周)

蛍遊び(華蝶楼国周、一鶯齋国周)

河原崎権十郎 (国周)

滝川・長尾・中川(一鶯齋国周画、国周)

長尾・重岡・花紫 (国周)
1862梅春霞引始(国周、 国ちか)2枚 国周浮世絵検索の公開総数92点  

南総里見八犬伝(柳嶋国周、国周、一鶯齋国周)  

 他に一鶯国周、鶯齋国周あるが、約85% 以上は国周 
1863水鏡山鳥竒譚(国周、歌川国周、一鶯齋国周)

假枕巽八景(国周、歌川国周、一鶯齋国周)

義勇八犬伝( 国周)

金花七変化(くにちか、一をう斎)
2枚 国周、一桃国周浮世絵検索で総数279点(以下は抜粋)   宅開酒宴之図(応需国周、国周) 蒙古襲来(応需国周) 沢村田之助(一桃国周) 源氏の若近江八景(一桃国周、国周)  其田練廓里暁(一梅国周、国周) そのゆかり源氏寿古六(一鶯齋国周)   其の他 約70%は国周
1864水鏡山鳥竒譚(一鶯齋、国周)7枚 国周浮世絵検索で総計410作品  

豊国III追善絵(門人一鶯齋国周)  

一鶯国周、一鶯齋国周が数点あり、其の他99%は国周
1865 13枚 国周  浮世絵検索で総数633作品  

一鶯齋国周が6点   其の他99%は国周
1866花暦封じ文(一鶯齋国周) 浮世絵検索で総数542枚  

一鶯齋国周が3点(実質2作品)その他99%は国周
1867和可紫小町文章(国周) 浮世絵検索で総数1072点(ミスや他浮世絵師含む)  

一鶯齋国周は12点 歌川国周2点(同一作品)、其の他99%は国周
1868  浮世絵検索で総数 349点  

一鶯齋国周、一鶯国周、応需国周、応好国周は各1作品、残りは全て 国周
1869  浮世絵検索で総数190点  

一鶯齋国周、応需国周、君松国周が各1点、残りは全て国周
1870  浮世絵検索で総数 327点  

ほとんどが、国周 豊原国周は1月から使用され、公開されているのは13作品ほど
1871  浮世絵検索で総数 223点  

勇肌磨腕揃6月(豊原国周)、 内篭曽我之対面正月(国周、豊原国周)など20%以上は豊原国周、その他は国周
1872  浮世絵検索で総数 298点 ほぼすべて、豊原国周

3-3 年玉印、五菱年玉印、落款  

 年玉印とは、浮世絵に国周筆とか国周画と書いた下に捺印してある丸印で、デザイン化された歌川派の紋のような印影だ。またこの丸印をもっと細長くしてその年玉印の中に名前を書き入れたりする事もある。国周もこの年玉印を使用し、歌川派に所属することを示した。

       
  次の例は、1864年の「彫物水滸伝」(団扇絵)だ。年玉印の中に「国周画」の文字を入れた例で、これもよく使われている。

 この「彫物水滸伝」では、さらにその下に五菱印が捺印されていた。菱形は直線で描かれている。この五菱印が最初に使われたのは、1861年の「木性の人 八月五日うけ入」に捺印された例が最も古い。もうひとつの例は、1863年の草双紙である「水鏡山鳥奇譚」で使用された五菱印だ。

1864年の坂東彦三郎を描いた作品では、菱形の一部に刻みが入っていて、全体として桜花にも見えるし、または年玉印の右上のボコボコ似も見える。同様の例は1863年の草双紙「假枕巽八景」で使われた印影だ。この二つのタイプの五菱印は使用時期とは関係が認められず、意図的に区別していたようには考えられなかった。これらの五菱印はその後も時々使われることがある程度で、多くは年玉印が捺印されている。

 紋に刻みを入れて、年玉印のイメージを表した印を、国周の師匠国貞も使っている。1856年発行の濡衣女鳴神二編四に一寿斉国貞画と記して三階菱の右上に刻みが入った印が使われている。1858年発行の濡衣女鳴神三編四にも歌川国貞画と記してとこの三階菱に刻みの入った印が使われている。国周は当然このように刻みを入れて、年玉印のイメージを作り出す事は知っていたと思われる。

 次の例は、「国周」と篆刻文字で書かれた落款の使用例だ。もっとも古いのは1858年の草双紙「教草朝顔物語八編」で使われた。その後1864年の師匠豊国IIIの追善絵や「暫く」などに見られるが使用例は少ない。

3-4 風景画に関して

風景画としては、ダイナミックに強調された風景を描く北斎や自然やその土地の旅情まで写し込む風景画を描く広重がすばらしい作品を残している。風景画の主題は風景であって、人物では無い。したがって、人物が1、2人描かれて何かの所作を主題とした絵は風景画では無い。そのような絵の構図であれば、自然風景や町並みに目が行く前に、人物の所作に注意が行ってしまうからだ。絵の中に人々が行き交うのが描かれていれば、それは風景の一部として理解される。この観点から、国周の作品を見ると、1863年にこのような定義に沿った風景画が出てくるが、この年以外には全く見つからなかった。北斎、広重ともほとんど横長の画面作品だが、国周の6作品はいずれも役者絵と同じ縦長画面で描かれている。この画面では、横の広がりよりも遠近を強調して近くの状況と遠くの状況の両方を表現できる。しかし、風景画としてこの縦長画面を用いると、一般的には掛け軸と同じようなテーマで描かないと散漫になってしまう。

 この風景画は、御上洛東海道というシリーズ物に属していた。豊国IIIが歌川派の絵師16名によって分掌された作品群の一部で、徳川家茂上洛という229年ぶりのイベントを当て込んだものだった(57、58)。総作品数は162作品だが、国周の絵でも明らかなように、東海道之内〇〇、東海道名所の内〇〇、東海道〇〇と画題が色々ある様に統一されていなかった。それぞれシリーズ物として順次刊行し、やがて揃い物として画帖となった。歌川派の絵師を集めて制作指揮を執ったのは豊国IIIで、版元以上の統括責任を負っていた。(以上山本野理子(59))。したがって、風景画で有りながら、武者行列が風景の一部として扱われていること、縦構図であることは制作指揮を統括した豊国IIIの指示と考えられる。

 国周の天竜川、豊川、膳所城の作品がこの掛け軸風作品だ。「水口」の絵では、風景画と言うよりも若干人物に意識が行ってしまう。結果として、北斎のようにダイナミックな風景を描いたり、広重のように旅情を描くことはできなかった。「二川」では、国周も広重も縦位置で描いている、山奥らしく遠景を入れることでしか表現できない場所のようだ。「天竜川」は、国周は梅雨の豪雨が激しく流れる天竜川を描いているが、広重は枯れた天竜川の広々とした様子を描いている。さすが広重、絵にならない風景を旅情ある絵にしている。「豊川」の絵に関して、国周は縦構図で描き奥の豊川稲荷まで含めて、印象的な掛け軸のような絵にした。広重は横位置で遠近感を出し広々とした風景を描いている。この二つは、構図の縦位置と横位置の大きな差を示しているし、国周は縦位置の特徴をうまく利用している。しかし次の「膳所城」が特にその欠点が出てきた例に思える。国周の「膳所城」は船客が主役に見えるが、それにしては表現が中途半端で終わっているし、右上の石垣は唐突だ。広重は近江八景で膳所城らしい城を取り入れた風景画を残して完成させていた。大久保純一(26,p65)は、国芳は1840年頃名所絵(風景画)を盛んに描いていたが、保管枚数が少ないことから成功しなかったことを物語っていると述べている。北斎と広重が作り上げた風景画の分野は圧倒的に彼らの作品の影響下にあったようだ。

 大英博物館に、国周の作品として開示されている絵がある。その中に、大判横を縦に4枚つないだもので、掛け軸のように見える作品だ。下絵のため、署名も年月も不明であるが、大英博物館のMs. Rosina Bucklandから、「The drawings were attributed to 国周 based on stylistic analysis. If they were preparatory drawings, one would not expect them to have a signature.」と報告をもらった。いつ頃描かれたのか不明だし、描かれた人物の顔つきから晩年の作品かもしれないと思えるが、国周の作品だと確信はできない。ただ、国周の描いた風景画を見ていると、構図は国周の作品だとも思えた。縦長の構図の特長を生かした絵だ。国周の作品だという確証は無いが、描いたのが国周だとしたら何年の作品なのかわかれば、国周の考えていたことが推察できるかもしれない。

 国周は風景画として評価されるべき作品をこれ以上は描かなかったが、この当時の洲崎晴風(1863年)や日本橋(1864年)などの役者絵の背景には素晴らしい風景画を残している。以下の風景画は、ボストン美術館所蔵。

3-5 役者顔絵の確立

 国周が描いた最初の歌舞伎役者は、署名がはっきりしない1859年の作品「安宅の関勧進帳」だ。国周は、豊国IIIの版木を使用して、富樫介家盛(大谷友衛門)の顔だけを描き彫り直したと思われる作品を作成したようだ。それまで、国周は草双紙で多くの人物を描いているが役者としてではなく、市井の人としての顔を描いていた。1856年の四家怪談に登場する人物を見ても分かるように顔つきは多様だ。国周が役者の顔を描いたのはこれが初めてとなるが、豊国IIIと国周を比較すると顔の表情が違いがあり、国周の描いた表情は優しい感じがする。役者の顔は、芝居好が人気役者のイメージを持っていたのでそれに沿った顔が要求されていたと考えられる。国周は、ここで始めて国周としての役者絵を世に問いかけたと思われる。また、この大谷友衛門の顔は、その後の大谷友衛門の顔に似ているので、特徴をつかんだ上で理想の人気役者の顔を描き始めたと考えられる。

 その後、国周が初めて署名入りで描いた役者絵としては、1861年に河原崎権十郎(第2章1861年の項参照)を描いた作品が最初の作品と考えられる。この絵に描かれた河原崎権十の顔つきは、四家怪談などで彼が描いた市井の人々の顔つきと異なり、歌舞伎芝居に登場する化粧をした役柄の顔を描いている。江戸の人々が思い描く理想の役者絵だろう。1862年から国周の作品数は急激に伸び始めている。国周が描いた1861年の河原崎権十郎の絵は、彼の作品の人気がでるきっかけだったと推定している。

 国周が描いた、江戸庶民が思い描く理想の役者の顔とはどのようなものだったのか。河原崎権十郎の絵は無いが、役者の実像と配役で演じる役者の顔の差に関して、国周が沢村訥升を描いた3作品があるので比較検討してみた。次の図左(写真)は写真と同じように訥升の実像を描いたもの、図中央(楽屋で)は訥升が楽屋でくつろぐ様子を描いたもの、図右(曽我十郎役)は芝居で立ち回りを演じた訥升が描かれている。この3枚が1868年と1870年に国周によって描かれた。この3枚を比較すると、図左(写真)は写真として実像が描かれていて、沢村訥升の目は上まぶたが膨らんでいるようであり、鼻が広がり、あごは幅広でがっしりしている。ところが、配役を演じる沢村訥升の顔(図右:曽我十郎)は、目はすっきりしていて、面長であごは細く、鼻筋の通った顔で描かれている。楽屋でくつろぐ沢村訥升(図中:央楽屋で)の絵は芝居の役者としての顔と実像との顔の中間のように上手に描き分けている。国周は役者の特徴を捉えた上で、配役を演じる理想の役者の顔を作り出していたと考えられる。従って、先に紹介した1861年の河原崎権十郎の役者絵は、このような手法で、初めて理想の役者絵が完成した最初の作品だと考えた。翌年1862年には沢村田之助、岩井粂三郎などの作品を発行したが、国周は役者の顔を描くに当たって、この様なテクニックが、この頃完成したのだろう。それが背景にあって、浮世絵師として人気が出て1863年から浮世絵の数が増加したのではないかと考えられる。

具体的には1861年河原崎権十郎の作品以降、1863年の源平盛桜柳営染の沢村田之助は優しくて可愛い女性に描かれている。河原崎国太郎他 1867年の絵では、5人の役者が描かれているが国周らしい優しく可愛い顔で全員が描かれ、似た様に見えるが、それぞれの個性も出ている。以上の事から、1861年に国周が描いた河原崎権十郎の役者絵は、重要なきっかけとなる作品だ。 

                 

3-6 作品構図の考察

 多くの浮世絵師は、歌舞伎芝居の名場面の再現、その瞬間の見栄、睨みなどを描いたが、国周は歌舞伎芝居の面白さ、筋書き、登場人物の悲しみ、苦悩を役者が表現していた表情を描いた。もちろん多くの浮世絵師と同じような印象的な場面や、ブロマイドのような絵も描いた。その描き方と内容で評価の高かったのは、大判3枚続きに役者一人を描いた作品や、大首絵の作品である。また、顔の表情が豊かに描かれていたので、絵を見ると物語が理解できる絵が描かれていた。これらの特徴を理解するために、彼の浮世絵の描き方を分類し現代の映像作成の観点から評価した。

 国周は歌舞伎芝居を市井の人に伝えるために、歌舞伎芝居を映像として捉えて、全身を描く、腰から上を描くなどの描き方で絵を描いていた。その描き方は、今日の映画やテレビなどの映像作成と同じ発想だと思われた。今日の映像作成者の間でも用いられるテクニックだが、用語は定まっていない。ここでは、ハンス・P・バハー(27)の定義を用いる。作品は大判1枚、2枚続き、3枚続きで画角(アスペクト比)が違い、更に背景を描くか、省略するかでも鑑賞者に伝える内容が異なってくる。人物が描かれた浮世絵を、人物の描き方と使用した紙の枚数(画面サイズ)の組み合わせから6つに分類し、それぞれの特徴を考察した。

3-6A)ロングショット

 遠くから眺めた様に描き人物の全身を描くロングショット。舞台を客席から見たように描くことにより、物語の場所などの情報や、脇役の動きも伝えることで芝居の筋書きが見えてくる。この場合は、大判3枚続に多くの情報を描き込む事ができる。2枚続の例もあるが、この場合はじっくり見て、子細に鑑賞する絵になる。大判3枚続の作品であっても、1枚ごと独立して鑑賞できるように描かれているが、隣の人物の着物、刀などの端や舞台背景が連続して描かれ作品が繋がっていることを示している。人物は立っていても座っていても原則全身が描かれる。

 「相馬良門古寺之図」(1858年)は物語を絵の中に書き込んでいて見てるだけで物語が想像できるすばらしさがある。この場合は、個々の人物の物語に加えて、関連する周りの人物や、背景に描かれた物などを通して物語が描かれている。彼は美人画や風景画に代表される浮世絵の世界に表情豊かな市井の人物を登場させ、その何人もが勝手にいろんな事を喋っているような物語を持ち込んだ印象がある。「相馬良門古寺」の図と言えば、多くの人は物語を知っているので、瀧夜叉姫が相馬良門へ魔術を披露している場面と分かるが、全く知らなくても物語が見えてくる。

 双蝶色成曙(1864年)はロングショットで舞台全体を描き、中村芝翫、澤村田之助、市川九蔵が登場する絵では、田之助が敵討ちをしようとしているが、なよなよとした姿で、か弱い女性の仕草を演じ、国周がそれをうまく描いている。見る者に、これではとても敵を討てないと思わず心配、同情してしまう絵になっている。これは、腰から上だけの構図では描けない。それぞれの動作からも感情が読み取れる。表情は見栄や睨みではなく、それぞれが意思を表示し、物語を伝えている。このように、その描かれた会話から、鑑賞者に物語が伝えられ、そして物語に引きずり込まれてしまうような表現になってきている。一般的に、このようなロングショットで描かれた多くの作品は山場を描いたもので、鑑賞者が物語に引き込まれるような作品は少ない。この絵のように、絵を見ることでストーリが想起されるように描けるのが国周だ。とはいえ、国周の多くのロングショットの絵も芝居の全体が暗示される絵も多い。

 



 次の絵は、「源氏之君近江八景遊覧之図」1863年の作品だ。月夜の晩に静かな川で酒と肴を楽しむ源氏、姫が句を読んだのか、踊ったのか座が盛り上がった様子。ロングショットで描かれ人物の表情が読み取れるが、鑑賞者は客観的に眺めて、描かれた雰囲気に思をめぐらすこともできる。

 全身が描かれた同様のロングショットの絵を紹介する。鈴木春信の立ち姿の浮世絵「Lovers Meeting on a Spring Evening(訳:春夜の逢い引き)」は背景を描いてある、一方、春信の「吉原美人合」と清長の「当世遊里美人合」は背景を描いていない。「春夜の出会い」には二人の人物が描かれているが、全身が描かれ中国の絵の影響を受けた着物の流れるような描き方がなされ、ゆったりとした動きに感じる。一人は頭巾を被り、更に帯刀した男だ。もう一人は案内しているようでも有り、通りすがりの頭巾姿の人物に話しかけて居るようにも見える。桜咲く春のようで、提灯から、宵が迫る頃かなと思わせる中に、美人を描いているが、それ以外の情報もたっぷり詰め込み物語が出来そうなくらいな情報を持った浮世絵になっている。二人の立ち姿とその関係を客観的に眺める絵で、二人の心の中、表情は明確に表現されていない。このように、場や雰囲気を伝える絵になる。

 一方、背景が省略された「吉原美人合」「当世遊里美人合 南駅景」は美人そのものを見せている。背景は無地で緩やかな着物姿で全身を立ち姿で描くと鑑賞する人は美人そのものが佇む絵に集中するという手法だ。動きも緩やかな動きで激しい動きの表現はなされない。こうなると、立姿の美しい女性だ、魅力的な面立ちだと言ったことに集中できる。このように立ち姿の構図は見る人が客観的に眺める事になるが、その心中は表現されていない。

 ここに紹介した、鈴木春信、清長の絵はいわゆる美人画である。細身で長身、柳腰で目は細く口は目よりも狭く描かれ、立ち姿の美しさと面立ちの美しさが描かれている。このロングショットでは顔の表情はデッドパンで描かれ、見る人の思い入れが入りやすくなっていて、遠くから眺めている印象になる。日本の多くの研究者は浮世絵に女性が描かれていれば美人画であると考えている様に思える。美人画は女性の美しさがテーマで無ければならない。面白いことに、海外ではこの「美人画」というジャンルに相当する単語が無い。また、この件に関しては、出口弘(28)は、美人画は今日の「萌え」に通じる感性で、春画とは違う感性だと論じている。

 次の「日本橋美人の夕景」では江戸日本橋のたもとの賑わいをモノクロで表現している。これにより、手前に佇む女性の立ち姿が引き立っている。国周は女性の着物の柄を背景に負けないように派手にするが、この絵では色も柄も上品にまとめられている。女性の立ち姿、面立ちに目が行く描き方がされている。背景のシルエットも黒だけでなく、灰色もあり全体として遠近感が出てきている、この描き方は素晴らしい。中央の女性は、木履を履き裾をたくし上げ元気そうで、顔立ちはあどけない少女のようだ。春信や歌麿の美人画とは違い、下町の雰囲気を出した身近なやつし絵だ。

 以上のように、遠くから見たような構図で描くので背景や舞台が描かれ、物語のバックグラウンドが理解できる。人物は全身の立ち姿などが描かれ、顔の表情で誰と誰が会話しているか、何か思案しているか等が客観的に描かれるが、描かれた人物の心情までは明確に読み取れない。ロングショットの絵は物語を理解する絵だ。美人画の場合は姿や面立ちを愛でる絵で、客観的に眺める絵となる。

3-6B)ミディアムショット    1人/枚

 大判の紙1枚に一人の美人や役者などを腕を含めて腰から上を描く「ミディアムショット」のケースを紹介する。この場合は、舞台やその他の背景は省略されるので描かれた役者の人となりや、動きやその場の雰囲気を見せる方法で、人物の動きと表情が強調される。国周が大量に描いた役者絵がそれに相当する。

 国周の例で「東都三十六景之内 愛宕山」、「里見八犬士」を示したが、背景も描かれているので鑑賞する人はこの瞬間の激しい動きと役者がどんな状況でどうしようとしているかと言った演劇の世界に客観的にかつスムーズに引き込まれ、役者の表情から物語が読み取る。歌舞伎芝居のある一場面、物語の一場面という印象になる。歌舞伎の物語を知らなくても、描かれた人物の動きから激しい動きや感情を読み取ることができる。ロングショットと違うのは、人物の表情が見えてくるので、鑑賞する人は人物の動作や人物の表情から描かれた人柄や気持ちに集中できる。

  ミディアムショットの構図は感情を移入させるような絵となり、国周は多く描くようになる。 さらに、ミディアムショットで背景をほとんど描かないと、描かれた人物の内面と感情が主テーマとなってくる。いわゆるポートレートになり、美人画にもなる。人物以外に情報が無いので当然、鑑賞者は人物に集中することになる。鑑賞者はその所作と顔立ちに視線を奪われるので、美人画が成立する。それが、歌麿が描いた高島おひさだ。

現代の漫画に類似した国周の可愛い美人画と思える絵を紹介する(上右図の迎風、次左右の図の当勢三十二想、里見八犬伝)。一般に「重岡」1860年に描かれた花魁のように、国周は着物の柄を派手に描くので、鑑賞者は着物の柄に目を奪われてしまう。そのため女性の容姿には注目が行かず、国周は美人画を描くのが下手だと言われている。しかし、この3作品は、顔と表情が見る者を引きつける。右端の犬坂毛野は刀を振り回しているが、動きは止まったように見える。いずれも背景の情報は制限されていて、女性の顔に視線が誘導される。これがミディアムショットの特徴だ。

                             
 この絵は、ミディアムショットの絵として河原崎権十郎と澤村田之助が優しくて可愛い人物として描かれている。周りの状況は描かれておらず、二人が無言で見つめ合っている。芝居を知っている人なら、特定の場面が想起され感情移入ができてしまう絵だ。このようなミディアムショットの絵が多くなったと言うことは、歌舞伎の人気が高くロングショットで芝居を説明しなくても、描かれた内容を理解する人が増えたことを意味している。1863年頃は、澤村田之助と中村芝翫はトップを争う人気役者だった。田之助はかよわい女性役で人気があった。そのような優しいイメージが描かれている。この絵は何かが始まる印象を与える描き方で、歌舞伎芝居の山場で見栄を切った場面を描いていない。物語の展開は鑑賞者に任されている。

  赤垣源蔵(中央)が雪降る中を意気揚々と来たが、若徒半助(右)は当惑している様子が描かれている。塩山与左衛門(左)は赤垣源蔵の後ろで聞き耳を立てている。これは、忠臣蔵の外伝の一つで、塩山が兄で、赤垣は弟。弟の赤垣は明日、討ち入りを決行することになったので、終われば死罪だ。人生最後に兄と酒を酌み交わすつもりで訪ねた。それまでは討ち入り計画が悟られないように、飲んだくれて遊んでいるように見せかけていたので、ただの酔っ払いと思われ煙たがれていた。この絵では、赤垣が訪ねて来て下男に訪問を告げている。兄塩山は居留守を使うが気になって聞き耳を立てている。国周はこのように、表情表現が巧みなので、その表情だけで物語が理解できる。

 「若俳優隅田涼風」(1864年)は、登場人物にぐっとアップで迫り、彼らがどこで遊んでいるかをことさら説明せず、表情を生き生きと表現して「楽しい」という思いを鑑賞する人に強調して見せる方法で、絵を見る人をこの遊興の場に誘い込んでいる。それは先の紹介した、「源氏之君近江八景遊覧之図」(1863年)と比べれば親近感が違うことが理解される。このようにミディアムショットで登場人物が描かれると登場人物の感情と、絵のもたらす迫力とが相まって力強い絵になる。

以上のように周りの状況が省略されるが描かれた人物の表情が豊かに描かれているので、物語の一場面が豊かに理解できる。また、鑑賞者は描かれた場に引きずり込まれてしまう。背景の描き方で描かれた人物の思いも強調される。美人画の場合は、描かれた人物の内面に寄り添う親近感が出てくる。

3-6C)ミディアムショット  1人/2枚

 大判2枚続の画面に人物1人をミディアムショットで描く絵は、(3-6B)のケースと比較すると、アスペクト比が異なり、左右の余白との関係で全く異なる印象を鑑賞者に与える。

 国周は2枚組の紙面に役者一人の迫力のある作品をいくつか描いているが、ここに紹介する作品は、彼の作品の中でも最も古い1人/2枚ものと思われる。現代アートのような構図だ。左手で掴んだ刀に動きがあり、右手を懐から出して、まさに刀を抜こうとしている様子で全体に勢いのある絵だ。中村芝翫の石川五右衛門は、大判2枚続にミディアムショットで紙面いっぱいに描いた1864年の作品だ。威勢の良いかけ声と、刀を掴んで飛び出してきて、諸肌を今まさに脱がんとする、ど迫力の様子が描かれている。この構図は現代のポスターでも通用する。大判1枚とこの2枚とでは、アスペクト比が違う。つまり左右の広がりに対して、この場合は上下の幅が長くなる。従って、絵を描くと左右が狭くなるので、その分の無駄な空間がなくなる。このことによって、画面に無駄がなくなり迫力が出てくる。


 大判縦2枚にして役者を描いた作品「大谷友右衛門」1866年がある。この場合も、アスペクト比1:1.33で背景はほとんど描かれていない。わずかに描かれた情報は、大八車の車輪だと理解できるが、大谷友衛門がにらみつけ長い包丁を振りかざす絵は迫力がある。この絵は、通常の2倍のサイズで非常に迫力のある絵として評価されたと考えられる。

  以上のように、ミディアムショット1人/2枚の構図の場合は、周りの無駄な空間が無くなるので、鑑賞者は画面の人物のすぐ側に居るようにも感じるし、鉢合わせになるようなインパクトも出てくる。この描き方は、大首絵に近くなるが、2枚の大判紙に描く事で状況を説明することもできて、更に激しい動きが表現される。

3-6D)ミディアムショット  1人/3枚

 次に、大判3枚一組に役者一人を描く意味を考察する。大判縦3枚で多くの作品を国周は描いているが、3枚に1人を描くとなると、これはアスペクト比が1:2で極端なパノラマ画面である。ハイビジョンのアスペクト比は16:9で、これよりも横長であるが、シネマスコープの1:2.35よりは短い。絵の世界では、このように横に長い画面は余白の空間を楽しむ風景画などに向いている。この画面に役者ひとりでは、背景が間延びしてしまい、役者の動き、感情などを表現するには余白が大きすぎる。そのため、役者の気迫を周りの空間が薄めてしまうと言う欠点があるがこれを克服した絵を国周は描いた。

 大判3枚続で一人の主人公が描かれた浮世絵としては、1847年国芳が描いた「朝比奈小人嶋遊」がある。その絵は朝比奈が寝そべっていて、その前を蟻のように小さな大名行列が歩く姿を楽しそうに眺めている様子が描かれている。また、1860年の歌川貞秀が発表した「朝比奈島遊び」もある。いずれもパノラマ画面を利用して大きな主人公の周りに小人を描き、主人公を一人大きく配置したことで構図に無駄が無い。これを大判紙2枚では小人の国が充分描けない。しかし、これらの絵は「面白い場面」を表現し絵の鑑賞者に驚きを訴えた、又は視覚的な面白さだけで、それ以上のものはない。更にこれらの絵は、ロングショットで描かれているが、国周は更に困難なミディアムショットで描いた。 

 この構図で描かれた大判3枚続にミディアムショットで役者一人を描いた国周の最初の作品は、「神力谷五郎豪傑さいごの図」だ。谷五郎が絶望の中で自害している無念の心情を表現している。背景の暗い中に追っ手の灯りがかすかに描かれ、敵に追われてきた様子が説明されている。壮絶な自害がテーマなら中央の一枚で十分だ。谷五郎の全身を描いた絵なら物語を客観的に眺める事になるが、ミディアムショットであり、周りに広い空間が孤独感を強調するので、絵で表現された絶望、無念の感情が増幅されている。

 神力谷五郎豪傑さいごの図に類似しているが、この1878年の西南雲晴朝東風誠忠最期之場も同じで、自害する絵だ。背景を暗くして、沈んだ雰囲気、孤独、絶望の状況を表している。さらに、前作のように追っ手などの説明は無い。したがって、死がテーマで、自害に至る様々な思いの中での自害という絵になっている。そのことから、主人公の心情表現としてはさらに強い印象がある。中央の絵一枚でも成立する絵だが、そうなると自害そのものの動作や壮絶さを表現する絵でそれ以上の物語は出てこない。ここに3枚にした必然性がある。

 「市川左団次」は無三四が画面一杯に暴れ回っているが、パノラマ画面で人物をアップにしたので、彼の怒り狂った感情を、浮世絵を見る人に訴えることが出来る。この場合、人物を小さくして周りを書き込めれば書き込むほど役者の怒り表現は薄まり、単に暴れていることを説明する絵になってしまう。国周はミディアムショットで人物の心情を表現し、さらに余白の空間に意味を持たせて、人物の心情を増幅させた。鑑賞者に人物の心情を伝える描き方は素晴らしい。

 この様式に類似していて、以前に描かれた役者1人と3枚続の絵は単に「面白い場面」を描いた作品でしかなかったが、国周が描いたミディアムショットで役者1人を3枚続きに描いたケースは、全く違う効果を生み出していた。それは、周りの空間を活用して登場人物の心情を増幅させるという効果だ。国周は、登場人物の動作を描く事に加えてその心情までを表現しようとして、この構図を作り上げていたと考えられる。この様式に関しては、吉田暎二(29)は「3枚続に一人の役者の半身を描くという描き方は、大画面を贅沢に使用した作品であり、彼の新機軸である。」と述べ、注目すべき様式だと評価している。

3-6E)大首絵(クローズアップ)

 胸より上、多くは腕は入らないが、手首までは描かれる。人物全体を遠くから眺めるような浮世絵から、もっと身近に美人を見る、美人に会う印象を与える描き方になる。この描き方だと、鑑賞者は絵の美人と声を交わせたり、その所作に感情移入しやすくなる。これまでの立ち姿の美人画は客観的に眺める事になるが、クローズアップでは鑑賞者の感情が全く異なってくる方法だ。これを大首絵という。大首絵と言われる浮世絵は写楽や歌麿が描いて有名だが、古くは春章、文調らが扇子の絵として描いていた。一枚物として描いたのは春好が写楽より数年早かった(30,p95)。しかし、歌麿が一歩踏み込んだ大首絵として高い評価がある。歌麿のクローズアップで画かれた女性達は、美人としての理想像が画かれ、「高名美人六家撰」と題を付けて、特定の人物を想起させている。従って、ほとんどの作品で面立ちは同じだ。

 東洲斎写楽の大首絵は歌麿と同じ範疇のクローズアップだが、現代でも通用する斬新さが素晴らしいし、すべて背景が無地で、写真館で撮影した様ないわゆるポートレート写真タイプを完成している。写楽の大首絵には、「東洲斎写楽」とだけ書いてある絵が多く「中村歌右衛門」などと役者名を記載した作品は少ない。ただそれまでは役者の顔を描き分けする意識が乏しかった。写楽は役者の顔を誇張して描いたことも有り、ファンの期待からはみ出したと言われている(61)。写楽は実像に近いポートレートを描いたようだ。人物以外の情報は無いので、内面と心情と瞬間だけに集中できる。この浮世絵を鑑賞する人は、手の動きの情報が入っていて人物の表情と相まって色々な思いを想起させる。役者の動きと人柄など個性そのものを鑑賞者へもっと近づけ親近感を持たせることを表現しようとしている。ここに参考として示した2枚の絵は、写楽の大首絵の中でも、描かれた背景の話を全く知らなくても、表情と動作からこの瞬間の物語が見えてくる。「中島と中村」は当惑した様子と深く思案し対応を考えている様子が見える、「大谷鬼次」はぐぐっと何かに迫る様子が見える。写楽は多くの大首絵を描いているが、「中島と中村」の当惑した顔の作品以外は、ほとんどの作品が無表情か軽く微笑む様子で描かれている。ここに紹介した様な人物の内面や感情があらわになった作品は少ない。役者が演じる芝居の中での理想の顔とは違って、似顔絵としてリアルだったために人気が無かったと田辺昌子(23)は述べている。

  以上のように、歌麿の大首絵で描かれた美人画は鑑賞者が美人の側に寄り添って声を掛けたくなるような親密感が出てくる。その結果鑑賞者は描かれた所作に感情を移入しやすくなる。一方写楽の大首絵は、内面や感情が描かれているが、明瞭には描かれず、例えば「大谷鬼次」は客観的に眺めて見るグラフィックス的な絵として、現代ではポスターにも使われている。

3-6F)大顔絵 (ビッグクローズアップ)

  大首絵より更に近づいて首から上を描くのが大顔絵(ビッグクローズアップ)。こうなると、鑑賞者は人物の表情からその心情を読み取ることになり、描かれた人物の感情、心情を一方的に鑑賞者に伝える絵となる。 ここで紹介する揃物は、ほとんどが1869年の歌舞伎演目を題材に描かれているが、きられ与三郎、仁木、団七は見立てで描かれていると小島(1)が述べている。その他の演目は、歌舞伎年表第7巻12)で確認した。以下に具体的に紹介するが、いずれも国周筆、版元は具足屋、彫工は太田舛吉なので、説明は割愛する。国周の大首絵には、役者名と芝居演目の配役名が描かれている。「3-5 役者顔絵の確立」の項で述べたように、国周は役者の実像を元に、江戸庶民がイメージする役者の顔に仕上げていたようだ。その上で、演目で演じた役者の心情表現を描き出した。それを理解して欲しいという気持ちで、国周は役者名と配役名を記載したと理解している。国周の大顔絵は、理想の女性像を描いた歌麿とは違うし、役者の実像を描き出した写楽とも大きく違う点だ。

 ここで紹介する絵は、全てボストン美術館所蔵

この「けいせい敷島」は「訝る」(嘘と違和感、間違っていないがどこか怪しい)の表情を描いたと思えた。眉をつり上げ、目は細くつり上がり、黒目が上まぶたに張り付くほどの上目遣い。お歯黒がちらっとみえる程度に口はうっすらと開き小首をかしげている。疑り深い目つきで、相手を小馬鹿にしたように頬が緩んでゆがんでいる。「上手なことを言って騙そうとしてるでしょう」と言ったような気持ちに余裕がある表情が読み取れる。辞書に依れば類似の「猜疑心」は相手の言動や行動を疑う気持ちで、「訝る」は変だと思う、不審に思う、はっきりしないのでおぼつかなく思うとある。「訝る」は不審に思っていると意味で、この絵にはその表情が出ている。

 「けいせい敷島」は、1869年巳年3月森田座、演目は「好色芝紀島物語」(35)で演じられた役だ。吉原の遊女敷島は客の金を盗んだという疑いかを掛けられ、源四郎とお爪に責め殺されてしまう。実は女将であるお玉が旦那の源四郎とお爪に指示していた事だった。敷島が亡霊となる話がその後出てくる。後半で、お爪が女将さんを強請ったのを見ていた青木主鈴が悪事を見て斬り殺す。その上で、主鈴は敷島を殺した主犯が女将さんのお玉であることを知っていて、公にするぞ、嫌なら俺と夫婦になれと迫る。お玉は仕方なく返事をするが、本気である証拠を示せと言って、お玉に源四郎を殺させる。ところが全てばれて、主鈴とお玉は捕まりそうになるが、主鈴は逃げ出す。しかし最後に主鈴は切腹する。さて、黙阿弥の原作では、「青木主鈴」となっているが、国周の絵では「阿古木主鈴」となっていることに気がつく。この「阿古木」は現在の「阿漕]の意味で、「阿古木主鈴」とは「あくどい奴 主鈴」と解釈できる。

 「阿古木主鈴」の顔は下から上を睨むようで、さらに黒目が上瞼に付くほど上目遣いで睨んでいる。口元はしっかり閉じられ、頬はうっすらと朱が塗られて紅潮しているようだ。道理に合わないことを言われた怒りと疑惑が渦巻いているような顔だ。この絵は、「阿古木主鈴」は刀を振り回すけんかっ早い武士なので恐れをなした篭屋が過剰に謝るので逆上する場面、はたまた、先に説明した話、お玉に源四郎を殺せとすごんだ場面かもしれない。

 「中間かん次」は下を向き上目遣いに相手を見ている。何か曰くのありそうな品物を片手でけ取った様子だが、提灯で相手を照らし、顎を引き、ぎょろりと見つめるその顔には不信感と威圧感が読み取れる。何か不審に思い身構え相手を疑った「猜疑心」の表情だ。演目は吉様参由縁音信(きちさままいるゆかりのおとずれ)で巳年7月(1869年7月)中村座で上演された。小島鳥水はこの芝居に登場するとしている(1)。国立劇場の資料(36)では中間九助として登場している。筋書きは、嫡子の左門之助が狂人扱いされ座敷牢に閉じ込められる。それを密かに救い出したお杉はかんざしを現場に落としてしまう。それを悪党中間の見張り役である中間かん次に拾われてしまう。ここでは、悪党中間の中間かん次が証拠に品を拾い上げ、これは何だと思いをめぐらせ、落とし主を目で探っている様子が描かれている。

「湯かんば吉三(ゆかんばきちさ)」は顔が下向きだが上目遣いで睨みつけている。口は薄く開いているが頬がゆがむほど歯ぎしりしている。目の周りはうっすらと朱が塗られているので気迫が出ている、まさに「怒り」の表情だ。事の次第は、1869年7月の中村座で上演された吉様参由縁音信の中の話。悪事を働く悪同士の弁秀がうっかり喋った金額を知った吉三がほとんど脅し取ってしまう場面だ。小悪党のリアルさが評判だった。

道風は1869年5月、市村座での演目「小野道風青柳硯」の主役。顔は下向き、口を開きうめき声のような驚きの声、「あっ!」が発せられる。瞳が定まらずうろたえたような様子で、何かに驚いている。小野道風と言えば、有名な話がある。カエルが柳に飛びつこうとして何度も何度も跳び上がり、ついに柳の葉に飛びつくのを見て驚き、反逆は実らないだろうと思っていても、実るかもしれないと道風が悟るという有名な話がある。そのまさに、驚いた顔だ。

弁慶とは1869年3月、市村座公演の勧進帳の弁慶だ。目は大きく見開き、口から驚きの声「おっ!」が漏れる。目は大きく見開き、瞳がちょっとうろたえて驚いた様子。流石に肝の据わった弁慶が大星由良之助や道風のように驚いてはいないが、内心を隠して驚いている様子だ。これは有名な場面で、関所の役人富樫に勧進帳を読めと言われた瞬間の絵か?その後弁慶は堂々と白紙の紙を広げていかにも書いてあるように勧進帳を読み上げる有名な場面だ。いや、一行の荷物を運ぶ強力の一人が怪しいと富樫に呼び止められた時の弁慶か。この難関も、弁慶は強力に扮した義経を打ち据えて切り抜けるのだ。窮地に陥った時の弁慶の顔だ。

この絵では、仁木弾正は、きりっと前を見据え口を結んでいるが、内心は余り見えないが固い決意が読み取れる。背景の赤と緑色の配色がただ事ではない雰囲気を醸し出している。仁木弾正は、伽羅先代萩(39)に登場する。お家乗っ取りを画策する首謀者だ。仁木は妖術使いで、御殿で連判状をネズミに化けて奪い、人間に戻って懐に連判状を忍ばせ悠々と去って行く場面だ。

1869年市村座で上演された能中富清御神楽(40)に登場する猿田彦とうすめが描かれている。豊後節系の宮本節と清元節の掛け合いの浄瑠璃。猿田彦と手力に命をかけて踊りと歌を披露しよう、神楽のリズムも楽しく打ち鳴らそう、そうすれば何事か大神も思い岩戸から覗くかもしれないと騒ぎ立てる場面だろうか。うすめの黒目はまっすぐ見ていて、彼女の頬もふっくらとして、目元優しく微笑んで楽しい気持ちを表現している。
一方、暗闇を照らしていたかがり火が怪しい風で全て消えてしまった。暗闇で猿田彦は何事だと訝った。きりりと口を結び身構えた様子だ。国周にしては珍しく顔に多くの線が引かれている。皺を表現したかったのだろうか。

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キリリと上の方を睨みつけているが、扇子を咥えている。薄く朱が塗られ隈取りされている。興奮して扇子をかみしめている様子だ。この絵の表情は読み取るのが難しかったが、歌舞伎年表から桃山譚 地震加藤と言われている演目と理解すれば、これは大地震に驚いた武将加藤清正(佐藤正清)が恐ろしくて歯がガチガチ震えた様子が描かれたと分かる。加藤清正はそれを押さえるために、手元にあった扇子を咥えた様子だ。歌舞伎年表7巻(12,p160)には8月に市村座で新歌舞伎18番之内市川海老蔵遺稿の正本「桃山譚」が上演された。この絵の検閲印の彫りは粗いが巳年9月と読めるので、この演目を絵にしたと考えている。 筋書きは黙阿弥の(41)「増補桃山譚 四幕目」(黙阿弥全集第9巻P596)とは若干違っているかもしれないが、大筋は伏見の大地震が起きた直後に、加藤清正が殿を心配して、桃山御殿へ真っ先に駆けつける。その後石田三成が駆けつけ門を開けろと言うが、清正は野心ある者が忍び込むかもかも知れないというので、「殿の命令で門を守っている、遅刻のしておいてとやかく言うとは不届き至極」と述べ通さぬ、通せとやり取りする。ここでもう一つ謎が残る。つまり、黙阿弥の桃山譚では、加藤清正だが、国周の絵では佐藤正清と似ているが違う名前になっている事だ。これまでも、国周は歌舞伎の配役名とは違う名前で絵を描くことがある。意図的に何かを暗示させる名前にしたと思われる。

  石川八右衛門は、上を睨み、目をつり上げ、顔は怒りで充血し、口を開いて怒鳴り散らしている。まさに激怒の表情。これは、中村座4月上演の忠孝武蔵鐙(42)の一場面。石川八右衛門は大酒飲みで怪力の持ち主。氏光公のお供で日光より城に戻るが、夜遅くなって城に着く。伊予守上下大小が門を閉ざしている。「殿の帰りだ門を開けよ」と八右衛門は怒鳴るが、夜遅くたった一人のお供とはおかしいと伊予守が開門せず騒動となる。

 柴田勝家は、歯ぎしりし、目はつり上がり、怒りで睨みつけている。忌々しい奴だと言った表情。小島鳥水によれば、中村座4月上演の忠孝武蔵鐙(宇都宮つり天井)に登場すると記載されているが、柴田勝家を探し出せなかった。この物語は殿の安泰を願うが故の武士達の衝突と言うことが描かれているので、柴田勝家も同じように争いごとに巻き込まれたのであろう。

戸隠は、左目の黒目が上瞼に張り付いている事から睨んでいることが分かる。黒目が中央にあればこちらを見ているだけに終わるが、この描き方で力強さも感じる。歯を食いしばっているが、顔は青ざめている。隈取りは、強さを示す荒事系の紅色ではないので、ここでは恐怖を感じていることを示している。青ざめる表現は現代でも使われている表現だ。屈強そうな武士が恐怖で青ざめた状況とは何だったのだろう。
市村座で8月に上演された能中富清御神楽。歌舞伎年表には河原崎権之助と記載されている。権之助の俳名である三升がこの絵では使われている。服部(16,p183)は、三升の名前は団十郎代々の俳名として使われていて、1873年に芸名として使われたと述べている。

げいしゃ三代吉と加古川清十郎は1869年4月中村座で上演された「百音鳥雨夜蓑笠」に登場すると小島鳥水(1)と松井英男(31)が述べている。歌舞伎年表には上演記録はあるが、大松ヤ清七(菊五郎)と記載されているだけだ。松井(31)によれば、あらすじは次の通りだ。遊び人清次と芸者三代吉は深い仲だが、三代吉に横恋慕する飾磨丈左衛門に困る。呉服屋の手代清七が三代吉を助けが、今度は清七が三代吉に惚れ込む。三代吉はお尋ね者となった清次を逃がすために、清七からお金をだまし取る。だまされた清七は逆上して三代吉を殺そうとする。

  さて、国周の絵には、物語の清七は尾上菊五郎演じる加古川清十郎として描かれている。細い眼で描かれ疑っている表情だ更に横目でキリリと睨みつけている。口は閉じられ歯ぎしりしている。だまされたことに気がついた瞬間のようだ。赤い下着が、内心の怒りが燃え上がる様子を示している。  一方、三代吉は、ふっくらとした顔つきで、とぼけた表情だ。上目遣いで清七に頼み事でもしているような様子。ずるさは感じさせず、思わず同情してしまいそうだ。

 松井の論文(31)では、芳虎の三代吉と清七の大首絵が紹介されている。芳虎の絵は、いずれも手や刀や杖が描かれ状況説明が加えられている、構図的には大首絵であり、また「怒り」や「困惑」と言うような単語で表現できる表情の一瞬を捉えて描かれている。国周の絵は、顔だけを大判紙にいっぱいに描く事で、全てを顔の表情から理解させ物語るすばらしさが在り、現代の映像作家の作品のようだ。

3-6G) まとめ

 すでに述べたように、ロングショットは背景まで描き込み物語を説明する手法であり、ミディアムショットは主に動きと役者の心情を表現する手法であり、クローズアップは描かれた人物に鑑賞者が思いを寄せさせる描き方であり、ビッグクローズアップは役者の演技した心情、感情を表現する方法だ。また、2枚に一人の役者を描いて、役者の動きや演技の迫力を表現した。3枚に一人の役者を描き、その心情を増幅させるテクニックを用いていた。これらの手法は、まさに現代の映像テクニックと同じだ。

  現代の映像の世界でも物語の展開の中で人物の心情表現としてビッグクローズアップが用いられるが、ビッグクローズアップの場面の前に連続した物語の流れがあるのでその心情が理解される。ビッグクローズアップの場面を突然見せられたら、なんか役者が悩んでいる様子を演じているようだ程度の理解になるが、ストーリーが分かっていれば思わずその人物に感情移入してしまうだろう。同じように、ビッグクーズアップの絵一枚を見せられてもにわかには読み取れない。国周の大首絵はじっくり表情を読み解くと理解できるが、一般的な絵画と同じように鑑賞すると描かれた内容を理解するのは難しい。国周の大顔絵が江戸庶民に認められた背景には、歌舞伎の人気が基本にあり配役の人物像が広く理解されていたという背景があると考えられる。

 国周の大顔絵に関しては、小島(1,p219)は映像関係で役者の顔面表情を示すために拡大して映し出す事がありそれと同じだと述べ、松井英男(31,p103)は配役の心情、役者の個性の追求から顔面描写に焦点が集まり、首部が大きくなると述べている。彼の記述からしか判断できないが、松井は従来と同じように役者のポートレート画として見ていたように思える。国周の大顔絵は、配役になりきって演じた役者の猜疑心、苦悩、怒りが混ざり合った複雑な感情を鑑賞者に伝えるために、周りの状況を全てそぎ落として表現した作品だ。つまり、役者のポートレートでは無く、演じた配役の芝居の中の表情だ。写楽の大首絵には「東洲斎写楽」と書いてあるだけだ。彼はどの役者を描いたか書いていないが、鑑賞者がこれは誰それだと確認した作品だ。一方、国周は署名し、更に「けいせい敷島、沢村田之助」と書いた。つまり、国周は田之助が演じた「けいせい敷島」を描きましたと宣言している。従って、田之助のポートレートでは無く、「けいせい敷島」という人物を描いたと主張しているし、そう理解すべきだ。また、その表情は現代でも十分通用すると確信した。浮世絵としてもさることながら、100年以上も前にこのようなテクニックで歌舞伎芝居の面白さを江戸庶民に伝えていた事に驚く。

  浮世絵の顔の描き方に関して、稲田俊志(43)は「浮世絵における美人画について」の中で、引目鉤鼻、小鼻の描き方、顔面表現は斜向表現で7:3に見える位置で描かれるなどの解析を行っている。しかし、残念ながら描かれた感情表現にまでは踏み込んでいない。昨今、顔の表情に関しては、コンピューターで人間の表情解析が行われている。基本的な感情をコンピューターでシュミレーションできるまでになっているが、一定の文化を共有する中ではほぼ同じ顔の表現で感情を表現していると報告 (44)(45) されている。ここで紹介した顔の表情が、日本以外の文化圏で育った人達からも賛同が得られるのか興味深い。

3-7 国周の初期作品の特徴

3-7A) これまでの評価

 始めに1900年に亡くなった国周の作品を、これまでどのように評価されてきたのかを、以下に時系列的に紹介する。

 1915年、荘逸楼は浮世絵師掃墓録(46)の中で、豊原国周の生い立ちや人柄に関して記述している。要約すると、天保6年の生まれで、本名荒川八十八、幼少から絵が好きで羽子板師に弟子入りし、羽子板屋明林堂の仕事をし、三代豊国の門に入り、国周の名を授かった。明治の豊国とまで言われたが、妻と家を取り替えるのが好きという妙な癖があった。妻は40人以上、引っ越しは83回。また酒癖が悪く飲むと前後の区別が無くなって暴れるが、醒めるといつも悔やんでいた。金に困った人が居れば自分は裸になっても助けていた等。最後に彼の傑作作品として、大首絵、梅幸百種、市川団十郎演芸百種をあげていたが作品に関する論評はない。

1920年に樋口二葉生は「明治の浮世絵師 豊原国周」(47)の中で、国周の氏素性を荘逸楼より踏み込んで記述しているので、赤裸々な生活が見えてくる。絵に関しては、次のような特徴を記述している。(a)羽子板屋明林堂の仕事では、俳優の似顔絵はつたない物もあるが、華やかで師匠の絵よりも問屋の評判が良かった。(b)国周の傑作作品は、梅幸百種、市川団十郎演芸百番、晩年では俳優見立白縫物語など、風俗絵では三十六会席などの列挙。(c)風刺絵として珍しいのは、文久元年(1861年)の三韓征伐の三枚続だ。

1931年に小島鳥水(1)は、江戸末期から明治時代の絵師は評価が低く三代豊国にいたっては頽廃期に多量生産した低級絵師と考えられたとと述べている。しかし、国周の安絵だが、大首絵は写楽以来の写楽が反古絵の中から見えてきた述べ、丁寧に解説して「写楽以来の写楽」と評価した。小島は、大首絵(大顔絵)を高く評価し似顔絵以上の、個性、性格が絵に浮き上がってきている、大顔絵(ビッグクローズアップ)の手法は現代の映像テクニックと同じだと言うことを看破していた。国周の大顔絵は、彼の視覚の鋭敏と表情描写の鮮新を持って描き、写実主義は新しい誇張にまで到ったと高く評価し詳細な論評が記述されている。

1931年に井上和雄(2)は次の様なことを記述している。国周の名前は豊国IIIと羽子板絵師の周信にちなんでいると思われる。号としては花蝶楼、一鶯齋、豊春楼がある。面貌の描写に所謂羽子板絵式の特徴を有している。さらに、大首絵が最も優れていると記述しているが、この件に関してはそれ以上具体的な論評はない。

 1971年に 吉田暎二は浮世絵辞典(29)のなかで、大首絵の役者絵に彼の最高の作品を残しているに過ぎないとして、彼の作品の中では大首絵が良いと記述しているが、それ以上に大首絵に関する詳細な論評はない。また、三枚続に一人の役者の半身を描くという大画面を贅沢に使用した作は彼の新機軸だと評価している。人物の顔の描写は、羽子板絵のような様式が加味され、見ようによっては冷たい感じであるが、それが彼の特徴だと述べている。

1974年に高橋誠一郎は後藤茂樹編浮世絵体系12清親の「大首役者絵の名手国周」(32)の項で、国周に関して、明治浮世絵の三傑として芳年、清親、国周を上げている。国周は40年以上も飽きもせず同じような役者絵を描き続けていたが、女房と住居には極めて飽きっぽく、妻と住居を変えた。小島烏水が国周の大首絵を高く評価し、写楽以来の第一人者と褒め称えたので、国周の大首錦絵はかなりの値が付いたが、豊国IIIの方が一枚上手だ。国周が他の先輩を凌駕しても直ちに写楽に迫る物であるかどうかはすこぶる疑問だなどと述べて、小島烏水の評価を否定している。また吉田漱(33)は国周の図版解説の中で、田之助演じたけいせい敷島の大首絵に関して、田之助の病的なまでの表情を捉えた、三升演じる勧進帳の弁慶の大首絵は他に例を見ないクローズアップと気迫溢れる絵と簡単に論評している。

 1981年に山口桂三郎等(34,P72)は次のように述べている。豊原国周は明治2年に用紙いっぱいに似顔絵を描いた。大首絵と言うより大顔絵と呼ぶに相応しいものであった。明治の写楽と評しているが、颯爽とした艶やかさと言う点で師豊国IIIにいくぶん劣るが、遠近を捨象した画面全体が不思議な迫力を持って鑑賞者に迫る。羽子板押絵の影響と見ることができる。このように、国周を「明治の写楽」と評価しているが、豊国IIIには及ばないと評価している。

1982年の原色浮世絵大百科事典第2巻(48,p134)では次のように評価された。国周は役者大首絵を制作して力量を発揮した。後年は役者似顔絵の七分身像が多く、また3枚続に一人の半身役者絵を描く。顔貌描写は羽子板絵式の特徴を持つ。山口桂三郎等(34)と同じように、国周の絵は、羽子板押絵の影響があると記述している。

 1982年にHugo Munsterberg(48,p134) は次のように述べている。国周は明治の浮世絵師として、大量に描いたが質的には安定していない。デザインが粗く、安い染料を使い、粗悪な印刷だ。しかし大顔絵はこの時代でもっともパワフルな絵だと評価している。明治の浮世絵師として取り上げていることから、このような評価になったと思える。江戸末期の初期の作品には若干当てはまらない評価と思う。描かれた作品の質にばらつきがあることはある程度同意できる。

2002年に松井英男(31)は芳虎の大首絵を論じたその中で、大顔絵が描かれたのは、演技の心情、役者の個性の追求の結果、顔面描写に焦点が集まり表情描写が精緻化され首部が大きくなるのは当然の帰結だと記述している。

2008年に浅野秀剛(30)が大首絵を論じている。その中で大首絵と大顔絵の区別は吉田暎二が区別を始めたこと、また、浅野の考えでは国周が描いた三枚続に一人の役者絵も大首絵とされている。しかし、三枚続きに一人の役者絵は、これまで検討してきたようにミディアムショットで余白を活用して役者の心情を増幅させる手法で在り、大顔絵は役者の感情、心情表現だけを捉えた絵で、異なる手法の絵だ。またミディアムショット、クローズアップという違いもある。この点に関しては、多くの研究者などが混乱していると思われる。

2008年に岡本裕美(24)は、浮世絵大事典で、次のように述べた。「豊国IIIゆずりの役者絵と美人画を得意とする。豊原国周の名前は、豊国IIIと豊原周信の名前を合わせた物である。大首絵は役者の持ち味を顔の表情だけで描ききった傑作といえる。」と述べている。このように、国周が美人画を得意とする評は少ないが、岡本は国周の美人画を認めていた。また大顔絵に関しては、似顔絵の延長上で評価していることが窺える。

2014年に菅原真弓は、豊原国周研究序説(3)の中で、大顔絵、三枚続に役者一人の構図など従来の説を踏襲している。また菅原は国周の美人画として開花人情鏡、見立昼夜二十四時を紹介しているが、いずれも何らかの所作が描かれている。美人画はポートレートであるが、菅原が紹介した作品は、強いて言うとスナップポートレートで主題は所作に重点があると理解される。

 2015年に菅原真弓は大首絵の構図を論じた論文(6)の中で、彼女は国周の大顔絵として描かれた顔の表現を豊国IIIと比較して詳細な検討をした。人物の目のアンバランスな大きさ、形、位置、白目と黒目などに特徴があること等を指摘した。結論として、国周は構図上、表現上のいずれにおいても、豊国IIIの域を超えた近代性を有していると高い評価をしている。

 2016年に菅原真弓(6)は、国周の初期の作品としては隅田川夜渡し之図、大顔絵、当世美女五人揃等も取り上げている。国周は役者絵のイメージが強いが美人画にも佳作を残していてるとして、その国周が描く美人画作品について構図、目の表現など詳細を述べている。

以上のように国周の作品に関しては、多くの人が特徴に関して述べていても、際だって良いとは評価していない。これまでの評価として3つの点が挙げられている。(a)国周の大顔絵は傑作だと認めても相対的評価では意見が分かれる、(b)三枚続きに役者一人の絵は評価が良い。(c) 傑作として挙げられた作品は梅幸百種、市川團十郎演芸百番、美人画として三十六会席などを代表作としている。

 さて、一つ目の(a)の大首絵に関しては、3-5Fで述べたように、歌舞伎芝居で役者が演じた配役としての感情表現演技であり、物語を象徴する演技をビッククローズアップ手法で描いた作品だ。この描き方は、現代の映像でも用いられる手法であり、似顔絵ではない。浮世絵師が描く、デッドパンのポートレートと比較していては、国周の大顔絵の意味や価値は分からない。二点目の(b)に関しては、3-5C、3-5Dで論じた。つまり、余白を無くして動作を強調したり、余白を利用して役者の感情、心情表現を増幅させる手法だ。国周以前の浮世絵師で、このような感情表現を描いた絵師はほとんど居なかったので、インパクトがあったと考えられる。構図的には大顔絵や大首絵とは全く異なる手法だが、これまでの研究者の一部に混乱が見られる。このように、見てくると、国周は多様な描き方の役者絵を通じて、現代の映像作家と同じように、歌舞伎芝居のストーリーの面白さを江戸庶民に伝えようとしていたと考えられる。国周の多くの絵は、ミディアムショットが多く、芝居を説明するロングショットが少ないことから、歌舞伎で演じられる物語は江戸庶民に広く理解されていたと考えられた。特に大顔絵(ビッグクローズアップ)は、歌舞伎の物語の内容が分かっているとその面白さはより理解しやすい。三番目の(c)に関しては、彼の傑作として挙げられた作品の多くは1870年以降の作品なのでここでは議論しない。

3-7B)初期作品の特徴

最初に述べたように、多くの評論家は、菱川師宣、鈴木春信、歌川広重、喜多川歌麿の匹敵する美術作品を国周が描いていたのかという観点で評価していたために、以上の様な断片的な評価がされていたと考えられる。国周は役者絵だけを大量に描き、傑作は大顔絵だけだと評されてきたが、これまで述べてきたように、国周は歌舞伎のおもしろさや物語りを浮世絵を通じて庶民に伝えた江戸時代の浮世絵師だったと考えられる特徴をまとめた。

「やつし絵、庶民化」

 1854年「春の景花遊図」は同年の豊国IIIの「十二月の内梅見」と比較すると国周の特長が分かる。国周も豊国IIIも主人公は上級武家または裕福な商家の奥方らしく、いずれも眉が無くお歯黒で描かれている。豊国の絵は観梅の宴、情緒を表現しているが、国周は花見幕の奥で酒盛りしている男達も描き物語を表現している。男達も描き込むことで、庶民的な花見を描いている。

 1855年の「隅田川夜渡之図」は師匠豊国IIIの若紫年中行事之内水無月と比べると、月、両岸の風景、船の位置と船尾の切れ具合など構図は同じだが、豊国IIIは雅な船遊び、国周は若い船頭が川渡しの日常を描いている。庶民の日常と言った風情だ。舟客が遊女だとしても、姫と若殿では無い。源氏物として、今様源氏の内月(1857)は、着物の柄、履き物などから、雅さは感じられない。また源氏五節句之内七夕(1858)、蛍遊び(1861)、春色酒中花遊び(1862)は同様に源氏物でありながら、庶民的だ。あこがれのような雅さは描かれていない。一方、当世美人揃(1858)、養蚕(1858)は庶民の生活をそのまま描いている。淺草金龍山市之図(1858)、風流見立福づくし(1858)、今様福神宝遊狂(1860)、見立月見の内(1862)は日常、風俗を描いている。相馬良門古寺之図(1858)は、現代から見ると庶民的と言うより通俗的漫画の領域になっていると思える。このように、国周はやつし絵を描き、日常、風俗を描き、彼以前の著名な浮世絵師とは異なる絵を描き始めていた。

「漫画 誇張と省略」

  浮世絵は木版画という制限も在り、基本的には線だけで描かれ、彩色されているが立体感を出すために絵画のように顔などに陰影をつけることはない。隈取りにしても、立体感を出すのであれば、隈取りの中で色の濃淡がなければならないが平面的に彩色されている。着物は線を用いて皺が描かれ捩れや動き、立体感を描き出すだけで、彩色して濃淡で立体感を出すことはほとんど無い。このように、現代の漫画と同じように線だけで全てを表現している。国周は鼻、眉、目、頬、口の大きさ、傾き、太さ、位置などのバランスだけで役者の演じた感情表現を巧みに表現した。国周は感情表現を描いたが、そのために、顔の描き方は立体的ではなく、よく見ると大顔絵などではひずんでいることが多い。横向きで在りながら、目や眉は比例して横向きではないが、感情を誇張するために、そのような描き方をした。顔の立体的な配置よりも心情を強く表現した結果だ。これまで何人かが、絵として物理的に正しい描き方をしていないことを指摘している(6)。しかし、彼は感情,心情を描いた結果として、それを誇張した絵を描いた。顔を正確に立体的に描こうとはしていなかった。省略、誇張、簡略の結果として物理的に歪んでいる。こんな風に見えるはずがないという批判があるかもしれないが、西洋絵画ではなく日本の漫画の描き方だ。遠近法などでリアルに描こうとした絵と比較するのは意味が無い。

 細木原青起は日本漫画史(50)のなかで、初期の漫画家として鳥羽僧正の人物戯画から始まり北斎や国芳、小林清親等の漫画に関して歴史的な流れを説明している。その中で、豊国の役者絵には雅味、風味がないと言うこと、写楽の役者絵は似顔漫画だとしている。細木原の記述の流れから、豊国の薫陶を受けた弟子である国周の描く浮世絵は雅味、風味がないという判断であったし漫画とは捉えていないようだ。また彼は、漫画という定義に関して、笑いや苦笑を引き出すのが漫画と考えている。細木に限らず、漫画を定義して論じる澤村修治(51)も、ほとんど同じような考え方なので、国周の作品は論じられていない。

 1858年の相馬良門古寺之図は現代でも通用する漫画だ。1861年の河原崎権十郎の役者絵はそれまでの顔つきと異なり、江戸の庶民がイメージする役者絵として確立された描き方と考えられ、優しい筆使いの漫画絵だ。1862年頃からの役者絵は線が単純で優しい顔つきで表情に豊かな絵が描かれた。1863年の源平盛桜柳営染、信州川中島合戦、江戸八景、1867年稽古筆七いろはに見られるように、顔は眉、目、鼻、口を線だけで豊かな表情を表現している。このように国周の作品には、可愛いとか優しい人物像が優しい筆使いで描かれ、現代の「可愛い」と表現される漫画と同じような絵柄が多い。表情豊かな生き生きとした人物が描かれた漫画絵だ。

「感情表現としての大顔絵」

 多くの役者絵では歌舞伎芝居で印象に残る場面で役者が見得を切る場面や、睨みを利かす場面と思われる様子を描き、感情の表現はほとんど無い。美人画では鑑賞者が自由に感情を移入できる無表情の所作(デッドパン)を描いている。武者絵でも同じように、物語の中の一場面で武者の力が入った瞬間の顔、睨んだ顔、威嚇する目が描かれた。定型の表情描写は、絵師の意図を直接的に見せず、婉曲的に鑑賞者に考えさせる形式をとるのが伝統的浮世絵の描き方と考えられていた為と考えられる。人間の明らかな表情を描いた絵としては、国芳の「百色面相」(天保10年1839年)、「百面相仕方はなし」(天保13年1842年)、小林清親の「新版三十二相」(明治15年1882年)などがある。これらの絵では、過去のことを思う、まごあやし、あくび、やれやれくたびれた、みとれる、なき上戸、酸っぱいなどの動作や所作とその感情を絵にしている。口の形しわの動きを極端に誇張し、思わず笑いを誘うようなコミカルな作品だった(69)。癖や表情を表現した漫画だ

 ところが、国周は感情や心情を描くことに長けていた。見立月見之内(1862)は体の動きと目線だけで表情表現ははっきりしていないが、十分物語を伝えている。その翌年1863年になると、ミディアムショットで描かれた団扇絵や伊勢音頭恋寝刀、さらに源平盛桜柳営染、信州川中島合戦は顔の表情が豊かになり、それぞれの登場人物がどんな話をしているのかを表現し始めている。この表情描写がさらに巧みになり1864年双蝶色成曙、1864年甲子曽我大國柱などは表情と動作から物語が読み取れる。1869年に具足屋嘉兵衛が版元で約22枚の揃物物の傑作「大顔絵」を残した。この中の、けいせい敷島の訝る表情、仲間かん次の猜疑心の表情、大星由良之助、道風、弁慶の各種の驚き、石川八右衛門の怒り、敦盛の不安の表現、切られ與三郎の苦しい恋路の心情、団七のうろたえ、刈谷道心の苦渋の心情、芸者三代吉のとぼけた顔などいずれも複雑な心情を目つき、眉、口元、頬の線、顔の向きなどで微妙な顔の表情を描いて感情を表現している。このように、国周は写楽の大首絵を発展させ、役者が芝居で見せた感情や思いを大顔絵に描いて歌舞伎芝居の物語を表現した。「漫画 誇張と省略」で説明したような技巧だけでこれだけ豊かな表現が出来ていた。

「心情表現増幅としての3枚続」

  3枚続に役者一人の絵に関しては3-6D項で考察した様に、いずれの作品も中央の1枚で十分に物語を表現できる絵だ。しかし、左右に空間のある絵を合わせることで、状況とスケール感を表示して主人公の無念さ、怒りを増幅するテクニックだった。これまでは吉田暎二、浅野秀剛、菅原真弓は新機軸、迫力が出るなどの程度の評価だった。国周はそれ以上の感情表現を増幅させる効果を感覚的に習熟して描いていたと思えた。

「ショットパターンによる効果とストーリテーラー」

  国周は物語としての筋書き伝えるために、登場人物の間の感情のやり取り、登場人物の動きと心情などを伝える情報を整理して絵を描いた。その方法は、現在の映像と同じように遠くから多くの情報を描くロングショットで物語の全貌を伝えたり、主に激しいアクションと顔の表情で物語を伝えることが出来るミディアムショットで絵を描いたり、描かれた人物に思いを寄せる事ができる大首絵を描いたり、背景が見えなくなるほど役者に近づき、演じた内面の心情を表現した大顔絵を描いたり、また演じられた役者の心情やアクションを強調するため大判2枚続に1人を描いて動きや感情を強調したり、大判3枚続に1人を描き余白で役者の心情を増幅させたりした。その描き方は現在の映像作家と同じテクニックだ。このように、色々なショットパターンを用いて歌舞伎芝居の物語を伝えた。A.L.Kern(アダム・L・カーン)52,p104)は「日本における初期の絵入りの本は、写真や映画が紹介される以前は特に、歌舞伎の舞台を見つめる観客と同じような視覚的視点を採用していた。」と記述している。これはまさに、国周が描いたショットパターンを変えて描いた役者絵のことであり、今日の映像技術手法と同じだ。今日、映画館で女優が涙する顔が大写しになるシーンと同じ手法で、江戸末期に国周は沢村田之助演じるけいせい敷島の大顔絵を描いていた。

  このように、国周は歌舞伎の面白さとしてのストーリー、配役としての人物像、その心情を伝える表情を描き、1枚の中にストーリー性のある絵を完成させた。大首絵は写楽以来だと評価されるが、彼は似顔絵ではなく心情表現を描いていたので全く別の物だ。彼の描いた役者絵などは、春信や歌麿が描いた様な美人を愛でる美術性の高い作品ではなく、国芳のようにリアルな絵や芸術的な絵でもなかった。彼は、歌舞伎の面白いストーリーを伝える作品ややつし絵などを優しい筆使いで作品を描き、庶民に支持された。彼の描く人物や役者は線が単純で優しい描き方なので国周の作品は現代の漫画絵と同じだ。といっても、笑い、ユーモア、規制への抵抗などの漫画ではなかった。 N.C.Rousimaniere(ニコル・クーリッジ・ルーマニエール)(52,p20)は「漫画は視覚に訴えてストーリーを伝える物語手法の一つで、描かれる線の力によって読者をストーリーに引き込むものだ」と記述している。彼は、国周以外の何人かの浮世絵師を紹介しているが、漫画として国周が描いた相馬良門古寺の図に勝る作品はない。国周の作品は、どれも描かれた人物が喋ったり、嘆いたり、動き回っている。これまで説明してきたように国周の作品はストーリーテーラーの漫画だ。

  その結果として、膨大な量の浮世絵が残された。彼の絵は大衆的人気と大衆的芸術性を併せ持っていたが、その芸術性を従来の美術作品として比較評価しても意味は無い。国周の初期の活躍をみると、サブカルチャーとして歌舞伎文化を江戸庶民に伝えた現代の映像作家のような浮世絵師だった。生涯を通じて、映像作家的な画角やストーチーテーラー的な浮世絵を描き続けたのかどうかは今後の課題だ。

引用文献

1 小島鳥水 江戸末期の浮世絵 豊原国周評伝 梓書房 1931年

2 井上和雄 浮世絵師傳 豊原国周 渡邊版画店 1931年

3 菅原真弓 豊原国周研究序説 京都造形芸術大学紀要 第18号 P69-88  2014年

4 菅原真弓 豊原国周研究2 国周の描く美人画作品について  名古屋芸術大学紀要 37巻 P173-188 2016年

5 菅原真弓 浮世絵研究の功罪 近代における浮世絵受容とその波紋  美術史論集18(神戸大学)P27-44 2018年

6 菅原真弓 豊原国周研究 大首絵の構図を中心に   京都造形芸術大学紀要 第19号 P80-97  2015年

7 石井研堂 「錦絵の改印の考証」昭和7年 1932年

8 菊池貞夫、小林忠、村上清造 原色浮世絵大百科事典第三巻 改印 p126- 1982年

9 菊池貞夫、小林忠、村上清造 原色浮世絵大百科事典第三巻 彫師と摺師 p104- 1982年

10 菊池貞夫、小林忠、村上清造 原色浮世絵大百科事典第三巻 浮世絵版画の版元 p134- 1982年

11 岩切友里子  国芳 岩波新書 岩波書店 2014年    

12 伊原敏郎著 歌舞伎年表 第7巻 岩波書店  1962年

13 Basil Stewart: “A Guide to JAPANESE PRINT and their Subject Matter” P335~1979, Dover Publications, Inc. New York 1979年

14 高橋克彦著 浮世絵鑑賞事典(角川ソフィア文庫)   KADOKAWA 2016年

15 ARC浮世絵ポータルデータベース 文化人・芸能人 人物名データベース     

https://www.dh-jac.net/db/shumei/search.php

16 服部幸雄 市川団十郎代々 講談社学術文庫  (株)講談社 2020年

17 森銑三モリセンゾウ 明治人物夜話  岩波文庫 2001年

18 加藤好夫 浮世絵文献資料館 2005年開設                

https://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/index.html

19 山口桂三郎 浮世絵の歴史  三一書房 1995年

20 田島達也 豊原国周「皇国蚕之養育」をめぐる問題                       

  史料館研究紀要34 21-56, 2003年 出版:史料館

21 藤岡屋日記 第8巻 p332  加藤好夫 浮世絵文献史料館から

22 菅原真弓 明治浮世絵師列伝 中央公論美術出版 2023年

23 田辺昌子 浮世絵のことば案内 小学館 2005年

24 岡本裕美 豊原国周  浮世絵大事典 東京堂出版 2008年

25 黙阿弥全集 第6巻 稽古筆七いろは

26 大久保純一 浮世絵 岩波新書  岩波書店 2008年 

27 Hans P. Bacher and Sanata Suryavanshi VISION:COLOR AND COMPOSITION FOR FILM ( ハンス・P・バハー著 VISION ヴィジョン ストーリーを伝える 色、光構図 

  p184 ショットのサイズ (株)ボーンデジタル 2020年)

28 出口弘 日本漫画と文化多様性 マンガをめぐる現状と歴史的経緯  情報の科学と技術 64巻4号 122-132 (2014)

29 吉田暎二 浮世絵辞典 画文堂 1971年

30 浅野秀剛 浮世絵大事典 大首絵 p95  東京堂出版  2008年

31 松井英男 歌川芳虎画新版役者大首絵小論 浮世絵芸術144 、2002年       

32 高橋誠一郎 大首役者絵の名手国周  後藤茂樹編浮世絵大系12清親  集英社 p84  1974年

33 吉田漱 図版解説 後藤茂樹編浮世絵大系12清親  集英社   1974年

34 山口桂三郎、浅野秀剛 他編集委員会編 原色浮世絵大百科事典 第九巻 作品四 広重-清親 大修館書店 1981年  p72

35 黙阿弥全集 第7巻 好色芝紀島物語 P159~ 1926年

36 第114回1月公演 国立劇場 象引 歌舞伎18番之内

37 歌舞伎名演目 世話物  余話情浮き名横櫛  p199-  監修 松竹株式会社 2018年

38 歌舞伎名演目 世話物  夏祭浪花鑑 p200  監修 松竹株式会社 2018年 

39 歌舞伎名演目 時代物  先代萩  p121   監修 松竹株式会社 2018年

40 黙阿弥全集 第20巻  能中富清御神楽 p697-717 1926年

41 黙阿弥全集 第9巻   桃山譚 p505  1925年

42 黙阿弥全集 第10巻 宇都宮釣天井 P563~  武蔵鐙 1925年

43 稲田俊志 浮世絵における美人画について  岐阜大学教養部研究報告 Vol20、157-164 1984年

44 Shichuan Du, Yong Tao, and Aleix M. Martinez “Compound facial expressions of emotion”    PNAS 111 (15) E1454-E1462 March 31, 2014

45 Lisa Feldman Barrett,et.al. “Emotional Expressions Reconsidered: Challenges to Inferring Emotion From Human Facial Movements”  Psychol Sci Public Interest.  2019 Jul;20(1):1-68.

46 荘逸樓 浮世絵2号 浮世絵師掃墓録(2)豊原国周 斉藤扇松堂 1915年

47 樋口二葉 「明治の浮世絵師 豊原国周」錦絵 33号 1920

48 事典編集委員会編 原色浮世絵大百科事典 第2巻 p134 大修館書店 1982年

49 Huge Munsterberg: “The Japanese Print A Histrical Guide”  1982, WEATHERHILL, New York

50 細木原青起  日本漫画史 岩波文庫  2019年 (原本は1924年 雄山閣発行)

51 澤村修治 日本マンガ全史 平凡社   2020年

52 ニコル・クーリッジ・ルーマニエール/編 松葉涼子/編マンガ! 大英博物館マンガ展図録 三省堂 2020.11

53 Amy Reigle Newland   “Time Present and Time Past Image of a Forgotten Master Toyohara Kunichika” Hotei Publishing 1999

54  Amy Reigle Newland ”Shaping the present, crafting the past: imaging self-narrative in the life and work of  Toyohara Kunichika(1835-1900)”  A thesis submitted in fulfilment of the requirements of the degree of Doctor of Philosophy in Department of Asian Studies, The University of Auckland, 2016

55 新藤茂 三代目澤村田之助 ペヨトル工房 2-33、1996年

56 江戸時代の風俗、文化、着物、帯などは以下の図書を参照した。

  菊地ひと美 ”江戸の衣装と暮らし解剖図艦” (株)エクスナレッジ 2023年

  撫子 凜 ”お江戸ファッション図鑑” (株)マール社  2021年

  菊地ひと美 ”江戸衣装図絵 奥方と町娘たち” ちくま文庫 2021年

  花咲一男 大江戸ものしり図鑑 主婦と生活社 2002年

  飯田泰子 江戸の仕事図鑑 下巻 芙蓉書房出版 2020年

57 岡畏三郎  原色浮世絵百科事典 第1巻 p138 大修館 1981年 上洛東海道

58 山本野理子 錦絵に描かれた千代田稲荷の流行 浮世絵芸術2011年 161巻 p5-21 

59 山本野理子 東海道中を描く錦絵の新展開 御上洛東海道を中心に 博士学位論文 2010年 

60 国際浮世絵学会 幕内達二コレクション 豊原国周展カタログ 1999年

61 辻惟雄 浅野監修 すぐ分かる楽しい江戸浮世絵 東京美術 2008年

62 中右瑛 浮世絵で見る英雄豪傑図鑑 p141 パイインターナショナル社 2019年

63 青木千代麿 チリメン絵とチリメン本 神の博物館編 百万塔(35) 25-29 1973年

64 小林忠 浮世絵 山川出版 2019年

65 榊腹悟 すぐわかる絵巻の見方 p16 東京美術 2004年

66 福田アシオ他編 日本民俗大辞典 p543 吉川弘文館 2000年

67 民俗学辞典編集委員会編 年忌と弔い上げ 民俗学事典 p510 丸善出版 2014年

68 日本風俗史学会編 年忌 日本風俗史辞典 弘文堂 1980年

69 河出書房新社編集部編 小林清親:光と影をあやつる最後の浮世絵師 p51-p65 河出書房新社 2017年

70 鳥居フミ子編 源頼光大江山入 伝統と創造 p474-p490 勉誠社 1996年 

その他の参考図書として団扇絵に関する論文は、以下の通り。

  1. 一立斉 広重団扇絵展覧会図録 芸術堂 対象13年
  2. れん坊主 浮世絵団扇絵目録 美術春秋 2の7~3の1
  3. 鏑木清方 団扇絵の変遷 美術月報 4の10
  4. 井上和雄 団扇絵に就いて  浮世絵27
  5. 紙屋魚平 団扇絵に就いて  浮世絵志7 昭和4年
  6. 小野忠重 扇とうちわ 印刷界 昭和32年